八島ヶ原湿原の四季を散策   Topへ

白いズミの花が桜並木となる八島ヶ原湿原に、紅色のレンゲツツジと白色のコバイケイソウの花が見事なまでの協演となります
6月の花

ズミの花

ワタスゲ

レンゲツツジ

アヤメ

バイケイソウ
平安時代から続く御射山祭も、下社大祝の金刺氏滅亡により室町時代末期には衰微します
諏訪大社・下社の旧御射山の史跡
御射山祭の神社仮屋が建てられた場所
前方の山、左から男女倉山,物見岩,蝶々深山
八島湿原最大の八島ケ池
アカバナ科,葉の形が柳に似ている ユリ科,擬宝珠から転じた名称
男女倉山山頂からは美ヶ原がまじかに見えます 鷲ヶ峰から見た八島湿原の草紅葉です
 鷲ヶ峰山頂の景色,左から三峰山,茶臼山,美ヶ原スノーシューでスノーウォーク
  
男女倉(おめくら)山の名は、山の北麓、和田峠より手前の男女倉地籍の字名の由来となっています。別称の「ゼブラ 山」はいただけません。
   男女倉山の倉は、京都御所の高御座(たかみくら)や諏訪大社の磐座(いわくら)に通ずる神が憑(よ)ります所
          男女租神の霊が宿る神山、男女倉の人々にとっては聖なる山のはずです。山名だけは留めておかなければいけません。
 

             初秋の八島ヶ原湿原に咲く高原の美しい花              2013年8月21日撮影
ワレモコウ(吾亦紅、吾木香) アサマフウロ(浅間風露)  マルバダケブキ(丸葉岳蕗)  ツリガネニンジン(釣鐘人参)
 トネアザミ(利根薊) ノリウツギ(糊空木) ノダケ(野竹)   ゴマナ(胡麻菜)
 マツムシソウ(松虫草)  ヒメトラノオ(姫虎の尾)  オミナエシ(女郎花) タチフウロ(立風露)
ハバヤマボクチ(葉場山火口)  マルバハギ(丸葉萩)  ハンゴンソウ(反魂草) ユウガギク(柚香菊) 
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御射山遺跡 平安時代以降から、特に鎌倉時代を全盛に室町時代中期まで御狩神事が行われました
をばなふく ほやのめぐりの 一むらに
              しばし里あり 秋のみさ山
                           金刺 盛久
 

 諏訪神社には上社と下社とがあり、下社は諏訪湖の北、旧中仙道の下諏訪の旧宿場町にあります。両社はさらに2宮に分れ、下社は春秋の2宮で、春宮は町の北、秋宮は町の東にあり、1km程離れています。上社の祭神は建御名万富命、この神は大国主神の子で一般に建御名方神といい、その母は糸魚川を根拠地として越の国に君臨する奴奈川姫です。古事記によれば、天照大神は天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を建御雷神(たてみかずちのかみ)に添えて出雲に遣わし、大国主神に国譲りを迫ります。大国主神は2人の御子神に判断を委ねます。兄神の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)は承知しますが、弟神の建御名方神は、建御雷神に 力比べを迫り、逆に負けて逃げて、信濃の諏訪湖の畔迄、追い詰まれられて殺されそうになります。建御名方神は、「この地以外には、今後は絶対に出ない」ことを条件に、助命を請い、諏訪の支配のみが認められ、それ以降、諏訪明神と崇められます。古代においては武水潟で諏訪湖畔の水の霊・豊漁神として祀られています。建御雷神の方は常陸の国の鹿島神宮に、天鳥船神は下総の香取神社に祀られ武勇の神として崇められます。下社は妃神の八坂刀売神(やさかとめのかみ)と建御名方神に八重事代主神を合わせて祀り、古代では八坂刀売神は下社背後の霧ケ峰を守護する山霊の神として崇められていました。

 『大鏡』は藤原氏の始祖・藤原鎌足を鹿島誕生と説き、藤原氏は建御雷神を祭神とする鹿島神宮を氏神として仰ぎその関係は深く、藤原不比等は神護景雲二年(768)に分霊を奈良に迎えて春日神社を創建しました。 不比等は壬申の乱の混乱期、幼少のため直接の関与はありませんでしたが、藤原氏、中臣氏は敗れて自決した大友皇子に、一族の殆どが属していました。没落氏族であった不比等は下級官僚から這い上がるしかありません。実は持統朝に31歳で官途に就きますが、それ以前の履歴は未だに不明なのです。ただ幼児期、渡来系の田辺史大隈(たなべのふひとおおすみ)によって養育されていました。不比等の 高い学識は、そこで養われた、日本の律令国家の完成に多大な役割を果たしたのです。
 697年軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てきます。また後室の橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、娘宮子を文武天皇の夫人(ぶにん)とし、首皇子後の聖武天皇を誕生させます。さらに橘三千代との間の娘である光明子(こうみょうし)を聖武天皇に嫁がせ、708313 51歳で右大臣となり、その地位は不動のものとなります。不比等は左大臣になることをさけ、その地位が空席であっても、ついに右大臣にとどまり、後に太政大臣の要請も、これを固辞して受諾しませんでした。
 『古事記』が説く建御名方神の国譲りの神話に疑問が生じます。同時代に書かれた『日本書紀』や『出雲風土記』にその記載がありません。『古事記』は元明天皇が和銅4年(711)詔勅を下し太安万侶が撰録し、翌年献上されました。 元明天皇は実務において右大臣藤原不比等を重用し、かれが事実上の最高権力者になっていました。また律令国家体制が整い、天武天皇以降、大王から神としての『天皇』を呼称する「現神(明神)御宇天皇(あきつみかみと・あめのしたしらしめす・すめらみこと)」に飛躍した時代です。至上神である天照大神の天孫、天つ日嗣(ひつぎ)としての天皇、その神性の由来を『古事記』が説いたのです。その重臣氏族もその系譜を天孫神話との関わりで、その正当性を主張し権威付けたのです。その最大の被害者が国つ神でした。 その伝承はゆがめられ、権威は貶められました。

 上下の両社には神職の上長者として、ともに大祝(おおはふり)が置かれていました。上社の大祝は建御名方神の神裔と称する神家(後に諏訪氏を名乗る)、下社の大祝は科野国造家一族の金刺氏が就くと伝承されています。やがて諏訪大社も諏訪明神を体現する大祝、現人神として崇めます。

 他田(おさだ)氏は、諏訪氏とは同祖関係になる古代氏族です。すなわち、諏訪上社・下社の大祝家はともに、多臣(おおのおみ)族の金刺舎人直から分かれました。当時、国造科野直は国造一族を舎人として大和に派遣し奉仕させていました。その派遣された金刺金弓の子・目古が他田舎人氏となり上田盆地を本拠とし、金刺金弓の子・麻背が金刺舎人直氏となり飯田盆地を本拠とする、2つに分流しました。金弓は6世紀代の欽明天皇に仕え、金刺宮で舎人として臣従します。そもそも、金刺という名は欽明天皇の大和国磯城島の金刺宮に由来しています。
 御名代部(みなしろべ)と御子代部(みこしろべ)とは律令制に移行する以前、倭王権の大王家の后妃(こうひ)・王子女の日常生活を支えるために各地に設定された人間集団で、付属する宮の名で呼ばれる部民(べみん)をさしました。御名代部と子代部の実例については 『古事記』などに散見され、概して皇子皇女の御名、あるいは宮号を称するものが多いのです。それ以外に宮が所在する地名を称することも少なくなく、具体的なその地名から、特定の王族・王宮との結びつきでそれぞれの部の設定と機能が考えられ、また正倉院文書などにも名代・子代の部と思われる人名資料が 多く、それらの分布傾向と設定時期を検討することにより畿内政権の地方進出の状況をある程度想定できようになります。名代・子代の部は多く、宣化(せんか)天皇の名にちなむ檜隈部(ひのくまべ)、安閑妃春日山田皇女にちなむ春日部(かすがべ)などがあります。一旦設定された部は、後代の王子女へ伝領されました。
 その組織は、地方豪族の子弟が近習する舎人、武人として仕える靫負(ゆげい)、料理人として奉仕する膳夫(かしわで)として宮に出仕する伴(とも)と、その生活費を貢納する部から構成されています。伊那地方を勢力圏にする金刺金弓は、舎人として欽明天皇の金刺宮に仕え信任をえて、金刺舎人直となり金刺を姓とします。金弓の子・麻背は同じく欽明朝に供奉し、やがて科野国造に任じられました。こうして科野国造の本拠地が善光寺平から飯田盆地に移ります。麻背は諏訪評に進出し、自分の子の兄の方・倉足を諏訪評督(ひょうとく)に、弟・乙頴(おとえい)を8歳で、現人神・諏訪大神大祝に就かせます。つまり諏訪郡の政務を司る評督職と神祇(しんぎ)を司る大祝職に分け、乙頴の社壇を湖南の山麓、今の上社に、倉足の評督所在地を今の下社周辺としたのです。神渡の下座(くだりまし)と上座(のぼりまし)の地点に定め、倉足の家系は湖北にあって政務にあったりますが、時代を経るに従い先祖を祀る氏神信仰が流行しますと、金刺氏も先祖を氏神として祀る社殿が必要になります。そして創建された氏神社が下社春宮・秋宮と社格を上げていったのです。
 麻背の兄弟である目古は敏達天皇の御名代である他田(おさだ)舎人部の伴造家となって他田直姓を賜り、目古の孫にあたる老は伊那郡司となり、子孫は歴代伊那郡司を世襲します。

 5世紀後半の雄略天皇の時代、有力地方豪族が王宮に出仕し、直接大王に臣従していました。彼らは一族と、それに従う周辺の中小豪族の子弟を伴い杖刀人(じょうとうじん)の部隊を編成し、大王に近侍し、その身辺警護に当たります。いわゆる親衛隊で、王権の有力な武力となっていたのです。いくつかの部隊が構成されていたでしょう。その部隊長が杖刀人なのです。杖刀人とは「刀を杖つく人」、大王の身辺にあって、いつも刀を帯びていた武官でした。信濃の有力豪族・科野氏も近親の有力者を派遣したことでしょう。国造(くにのみやつこ)制は6世紀前半に成立していますから、この時代、未だ倭政権が任じる地方官の制度は確立していなかったようです。
 ただ5世紀代には葛城(かつらぎ)・和珥(わに)・平群(へぐり)・的(いくは)・蘇我・大伴・物部など倭政権の主要な構成氏族だけでなく、出雲・吉備・筑紫・紀・上毛野(かみつけの)などの有力地方豪族までも、遠征指揮官として国内各地や朝鮮半島に出兵しています。こうして国内が統治され、内乱が治まる古墳時代に環濠集落が消滅していきます。
 しかしこの遠征による人的負担のみならず、生産性の低いこの時代、年貢以外の兵糧の確保などにより、各地の有力地方豪族の多くが没落していきます。その本拠地に宅(やけ)という広大な農業経営地を基盤とする氏族であっても耐えられなかったのです。雄略天皇の時代の終末前後、5世紀代に一大勢力を誇っていた吉備氏の主要氏族・下道(しもつみち)と上道(かみつみち)の両氏が前後して反乱を起こし破れ、吉備氏の勢力は大きく削減されます。
 6世紀前半の527年、継体天皇の時代、筑紫に磐井(いわい)の乱が勃発します。筑紫の有力豪族・磐井が新羅と同盟し北九州で反乱を起こします。筑紫、現代の福岡県を本拠にする磐井は、火の国、佐賀・長崎・熊本県と豊の国、福岡県東部と大分県の2国まで勢力圏に置きます。まさに地方の反乱でした。しかし翌年、大連の物部麁鹿火(あらかい)が大将軍として出兵し、現代の福岡県久留米市の筑紫の御井郡で磐井軍を敗走させ、その間、磐井を斬り死にさせ反乱を鎮圧します。 この時代、信濃でも科野国造勢力は、経済的に追い詰められ、軍事動員力を喪失していきます。
 磐井の乱は倭政権の地方支配強化の契機にもなりました。地方の有力豪族を地方官の長として国造に任じ、要所々々に屯倉(みやけ)を設置したのです。国造とは「御奴」で、「御」とは大王に向けられた文字で、要するに「大王の僕(しもべ)」という意味です。屯倉とは各地の国造等の領内に置かれた倭政権の政治的・軍事的拠点です。中央からの派遣官が、そこで倭政権の意向に添う、国造等の支配統治を行ったのです。屯倉の「み」も大王に属する尊敬の接頭語で、倉の「やけ)は「家」、「宅」で、屋根のあるところを表現する「やか」が変化した言葉です。屯倉の語義は「王の建物」ということです。通常は国造や伴造に統治を任せ、必要に応じて王権の使者・宰(みこともち;大王が発する言葉が原義)を派遣し政務を執らせ、国造や伴造に政令を伝え実行させる地方官制を布いたのです。 これにより地方はさらに疲弊します。地方官制により、倭政権の収奪に応えて、物資の調達・その集積・兵役の徴用・徭役労働など多岐にわたる要請に従わなければなりません。ただ屯倉といっても地域的特性が個々に生じ、536年(宣化元)に筑紫に設置された(福岡県)那津(なのつ)宮家では、各地の稲穀(とうこく;稲籾【いねもみ】)を集積し飢饉に備え、さらには朝鮮半島からの使節の迎賓館でもありました。やがて大宰府となります。田地が付属する屯倉、製塩・鉱山・漁労を目的にするものもあります。田地が付属する屯倉は、倭政権の主要な経済基盤となります。

 6世紀の倭政権の地方支配は、新たに国造の領域内に部民(べみん)を設けます。部とは、①大王・王妃(おうひ)・王族・氏族などに隷属し、生産物を貢納し労役を提供する人間集団です。部は祝部(はふりべ)・錦織部(にしきおりべ)・鍛冶部(かぬちべ)・陶作部(すえつくりべ)・鞍作部(くらつくりべ)・馬飼部(うまかいべ)などの職能集団、②刑部(おさかべ・舒明天皇)・三枝部(さきくさべ・顕宗天皇)・小長谷部(おはつせべ・武烈天皇)・金刺部(かなざしべ・欽明天皇)・他田部(おさだべ・敏達天皇)・白髪部(しらかべ・清寧天皇)などのように名代・子代あたる大王・王妃・王族の宮号を付した部、③大伴部・物部・蘇我部・和珥など氏族名を付した部の3分類に分けられます。
 部は、すべて王権に帰属します。大伴部・物部・蘇我部も本来、王民ですが、大伴氏や物部氏の氏族が王権へ奉仕する見返りとして支配権が委譲されました。しかし部民を領有する王族や氏族にとって、実態は隷属させる私有民としての部曲(かきべ)でした。具体的な例として、部民を私的に奉仕させる入部(いりべ)の慣行です。入部とは部民のなかから選抜して上京させ仕丁(しちょう)として雑役に従事させる者です。645年、中大兄皇子が大化の改新に着手します。彼の最初の改革、部の廃止策は、翌6463月、中大兄皇子の「皇太子奏請文(こうたいしそうせいもん)」から始まります。当然、当時の中国唐の制度が念頭にあったでしょう。一君万民思想を掲げ一元的支配体制を確立のため、部全体の総称・品部(ともべ)の全体的な廃止を企図します。 それを受けて、6468月と翌年4月に「品部廃止の詔」が2度にわたって宣言されます。中大兄皇子は、このとき孝徳天皇の諮問に応えて、皇子の入部で「品部廃止の詔」の定めた数を超える者を朝廷に返上します。その数524口でした。いかに部民が部曲化していたかが分かります。
 本来の公民(おおみたから)に戻すための施策、倭政権の部民制は、当初より矛盾をはらむ二元的組織として形成され、やがて中央の有力氏族による品部の分割領有が現実となります。5世紀後半までは、大王に直属していた地方豪族の子弟の伴としての出仕も、6世紀のこの時、中央豪族の伴造に率いられ、大王への直属関係はなくなり地位も低下していました。

 645年、中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターで蘇我蝦夷・入鹿父子が滅亡し大化改新が行われます。本来の王権のための部民が、有力諸氏族の私有民として部曲化され形骸化したため、再度すべての民を公民(おおみたから)するための一元的支配体制を創出しょうとします。対外的にも、朝鮮半島情勢は風雲急を告げ、朝鮮遠征軍の派遣が緊急の課題となり大王の絶対的権力の確立が必要となりました。
 313年高句麗族が楽浪を覆滅すると、相前後して帯方郡を滅ぼしたのが、馬韓族とされています。その小国の一つ伯済国が中心となって馬韓の北半部、漢江南岸を中心にして百済国が建国されました。その父祖の地、百済の都があった漢江流域も、このとき既に新羅の支配下にあります。かつて隆盛を極めていた高句麗も、隋・唐と続く遠征軍との戦闘で国力は疲弊し衰微していきます。百済とは馬韓・辰韓の頃から長年同盟関係にあった新羅でしたが、当初は北方から高句麗が侵攻し、西方から百済が侵略するといった小国としての苦杯を強いられますが、倭国にも滞在した経歴のある金春秋よる唐への働きかけが成功すると、唐との両面作戦で百済、高句麗と駆逐し、史上最初の朝鮮半島統一へ邁進します。

金春秋が活躍するより1世紀前の事変です。当時劣勢著しい 百済聖王は、倭国の出兵を要請します。見返りとして倭国が求める諸博士や仏像・経典などを送ります。このことが倭国文化に画期的な影響を与えます。倭国が百済に援軍を派遣している最中でした。554年、百済は勢いづき聖王の王子・余昌軍が新羅領内に攻め入ります。たちまち余昌軍が苦戦します。聖王は救援のため、新羅の管山城を撃ちますが、逆に聖王の親征を知ると新羅軍は総攻撃開始し、王を戦死させます。ここにおいて朝鮮半島の歴史は、古代から続く高句麗と百済の南北対立から 百済と新羅の対立へ大きく旋回します。百済はかつて何百年と抗争を重ねてきた高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになります。 東アジアの歴史は「高句麗-百済-倭国」と「唐-新羅」の同盟勢力が対立する構図へと傾斜していくのです。

6543月、新羅の真徳女王が死去すると、人徳と人望があり、その上、実績のある金春秋が推挙され王位に就きます。52歳で即位した武烈王です。春秋は、先の648年、唐の大宗が死去する前年、子の文王と共に唐の都長安に赴きます。高句麗の北からの攻撃に加え、隣国百済の激しい攻勢に直面して孤立する新羅は、唐の軍事援助を期待するしかありません。 唐の大宗の歓心を買うため、その後、春秋は新羅の礼服に改めて、唐の制度に倣いたいと大宗に申し出ます。唐の属国になることを自ら申し出たのです。新羅が唐の衣冠を着用するようになったのは、翌649年正月でした。

655年、百済・高句麗が新羅北部を攻略、 武烈王は唐の高宗に援軍を頼みます。高宗は軍を派遣し、高句麗を攻撃し新羅と協同作戦を展開いたします。660年、唐と新羅に両面攻撃を受け百済は滅亡し、王族のほとんどが唐に連れ去られます。668年、高句麗の内紛に乗じて、唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、宝蔵王らは投降して高句麗も滅亡します。


 改新政権が、こうした朝鮮半島情勢に即応できる体制、一君万民の政治体制・公地公民の支配体制を確立しょうとしますが、蘇我氏本家が没落しても、他の倭政権を構成する有力中央諸氏族は存続していますし、その協力が得られなければ、この現況に対応できません。それで改新政権は、当面、地方諸国に使者の宰(みこともち)を派遣し様々な施策を実施いたします。
 『書紀』では6456月から9月にかけて、諸国に国司を派遣したとしますが、後の律令制下で国司が国衙に常駐したのとは違い、管轄区を巡回していました。その任務は、①任地の戸籍を作り、田畝(でんぽ)を調査する。②評(こおり)の官人として任官を希望する者の系譜を調査して報告する。③国造などの在地首長が保有する武器を収納して、武器庫を造って保管し王権の管理の下に置く。
 ①の戸籍は域内の総戸数を把握して、官馬・仕丁・采女の徴発と「男身の調」と兵器などの賦課基準とするのです。田畝の調査も域内の田地の総面積を測り、田租の調と調副物(ちょうそわつもの)の賦課基準とします。②は王権の一元的支配体制の確立のため、国造や伴造などの在地勢力の弱体化と王権の地方支配の拡大を企図します。防人・駅馬・伝馬などを置きます。国造の広大な支配領域を細分化し評として、その官人として旧来の国造だけでなく伴造・県の稲置(けんのいなぎ)などを任用します。そして巧妙にも評には、長官と次官にあたる評督(こうとく)と助評(じょとく)を任命し、それぞれ在地の別の氏族から選任します。しかも両者にほぼ同等の権限を与え、権力の独占化を阻み相互の牽制を意図します。この体制は評の後身の郡体制に引き継がれます。 ③は国造領内の武器の収公です。その主たる対象は、地方最大の権力者・国造ですが、武器は在地の武器庫に置き、王権の管理下に置きます。この武器の収公策は、クーデター直後実行され、宰(みこともち)が諸国にしきりに派遣されます。翌年、早くも宰は武器庫建造のために奔走します。大化改新は部民制の廃止には至りませんでしたが、地方支配に関しては大きく王権の拡大に成功しています。大化改新は近年過小評価されていますが、日本史上最大のエポックで、後世の天武天皇による律令体制の確立の基礎作りに貢献しています。天智天皇とその弟・天武天皇の改革は、その後の天皇体制を生むと同時に、古代の単なる現世的権力者の大王から、現神(あきつみかみと)としての神格化により、世界に類を見ない王権の継続を可能にしたのです。

 諏訪神社の大祝について、「祝」はハフリと読むがハウリ、ホウリとなまって読まれることもあります。平安初期に編纂された養老律令の刑法にあたる律ではなく、行政法としての令についての公的な註釈書、令義解(りょうのぎげ)では祝部(はふりべ)と読み「祭にあたって賛辞を掌る者」とされ、大和朝廷による各地の神社に置かれた神職の部民でした。  当初は国司がその神社の中から選任された者を任命しましたが、各神社の自立心が強く祝の家は世襲化していき、員数も増えていきます。
 員数が増える中で、中世以降、祝の家の上座に大祝を置く神社が生じます。諏訪神社の他に上下賀茂神社、大神神社(おおみわじんじゃ)、住吉神社、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)などがそれで、中でも諏訪神社の大祝は、天皇の現神(あきつみかみと)と同様の諏訪明神、即ち現人神として崇められ、軍事力も持ち在地武士団の有力な長ともなります。大祝の諏訪宗家を中心とする武士団は神家党(じんけとう)と呼ばれます。金刺氏も武力を蓄え、手塚とも称し手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せます。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となり、以後代々下社大祝職を継いでいます。
 上社の大祝家は本姓が明かではなく、一般に神家といっています。出自については、建御名方命の後裔と称しています。平安時代中期以降、神家の嫡男が大祝を継ぐ慣例ができたようです。この頃から一族が繁栄して信濃国内に多くの庶家を分出し、大祝家を宗家とする武士団が形成され、東国屈指の勢力を誇り、世に神家党といわれます。宗家は早くから諏訪氏を名乗ったのでしようが、源平争乱の際、盛重が頼朝に仕えて諏訪太郎を称したのが諏訪氏の名乗りのはじめとする説もあります。関屋・深沢・皆野・保科・笠原・千野・有賀・四宮・知久・宮所・平出などの諸氏が分出します。
 戦国時代に武田氏と争い、1542年大祝頼重が武田信玄に謀殺されて、大祝家は断絶しました。しかい従弟頼忠が徳川家康に仕えて所領を安堵され、その子・頼水は諏訪高島郡3万石を与えられて、近世大名として明治維新を迎えます。諏訪大祝職は頼水の弟頼広が継いで、子孫は明治に至ります。

 前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝及び社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し、族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していきます。頼朝のとき、上社大祝諏訪盛重、下社大祝金刺盛澄らが旗下に参じて御家人となって以来、鎌倉時代を通じてよく幕府に密着して社運の興隆が計られました。その顕著な例が上下社の御射山祭です。これは上社が八ケ岳山麓の神野(こうや)に、下社が霧ケ峰の八島に、広大な屋外円形桟敷を設けて神事だけでなく、諏訪大社奉納試合的武技を競った特殊な祭典でした。幕府がその頭役を信濃の地頭御家人に課し、鎌倉幕府がこれを管掌するという大がかりなものでした。
 幕府は信濃の地頭御家人らを12組に分け、輪番制で頭役を勤めさせます。組は田数合計80町を基準として、氏族関係や領地の隣接関係を考慮して編成されます。「諏訪大明神縁起絵詞」に、頭役勤仕は「一生の財産を投ぐ」と書いています。それは大いに名誉であり、幕府への忠誠の証でもあったでしょう。しかし御射山祭に勤仕するのは、地頭だけではなく、その地元の各郷の負担も大きかったのでしょう。毎年の穂屋(ほや)の作り替えや道普請など、分担も多岐にわたり、その負担する仕事量や物資など、かなり過重だったと推察されます。
 それで幕府は頭役勤仕の地頭に特権を与えます。①その年の鎌倉番役の免除、②年貢以外の諸納物の免除、③新任の国司による検地の免除、④幕府は鷹狩りを禁止していたが、頭役には特例として許可します。
 中世の諏訪大社・下社の御射山祭は霧が峰・八島の旧御射山(もとみさやま)の地で、上社と同様に盛大に行われました。上社では本宮から東南12K余り離れた八ヶ岳山麓の広大な、いわゆる神野(こうや)で執り行われました。 原村柏木の物見ケ岡から旧富士見村と旧金沢村の3か村の境界地にあたります。八ヶ岳西南麓の裾野、東西約1K、南北0.5K余りで、かつては森林地帯でした。祭りの最中には参詣人はもとより技芸の人も群集し、鎌倉時代には全国に聞こえた大祭でした。 御射山祭は神事のみでなく、武士達により小笠懸(こかさがけ;疾走する馬上から的に鏑矢【かぶらや】を放ち的を射る)、草鹿(くさじし;草を束ねて鹿の形をつくり、距離を定めて矢で射る稽古をしたのが始まりといわれています)、競馬(くらべうま)、相撲、鷹狩りなど、数々の武技が演じられました。
 下社の御射山祭の様子は、下社武居祝(たけいほふり)家所蔵の「旧御射山図」で明らかです。旧御射山神社跡の東南に祭事用の「神楽所」・「御供所」などの穂屋(ほや)が設けられています。現在の神社跡辺りに「神社仮屋」があり、その北側が「勅使御桟鋪」、その東隣が「甲州侍桟鋪」、 反対の西隣が北条殿、千葉殿、和田殿、佐々木殿、梶原殿と鎌倉幕府の主要な御家人の桟敷が並びます。その序列も興味深いです。信濃侍桟鋪は「神社仮屋」の南正面にあって、海野、望月、根津各氏の名が見られます。
 「神社仮屋」は上社の御射山際の仮屋と同様、すべてススキの穂で葺()かれ、別名「穂屋祭(ほやのまつり)」とも呼ばれていました。武士達の桟敷も、すべて茅葺きの仮屋で祭事後は取り払われます。下社でも武士達によって、武技や相撲による諏訪大明神奉納試合が行われました。


 文明15年(1482)正月大事件が生じます。上社の諏訪一族は既に平安末期の頃から武士化し、総領家一族は上原城を構えていました。それで大祝(おおほふり)の地位を一族に別家を立てて継承させていました。その大祝継満派が総領家の乗っ取りを謀ったのです。正月8日でした。祭事にかこつけて、総領政満、嫡子宮若丸、政満の弟・埴原田小太郎ら一族他、10余人を前宮の神殿(ごうどの)に招き、終日饗応し酔いつぶし、深夜兵をもって謀殺したのです。
 古来より神聖清浄であった神殿を大祝継満自ら血で汚したのです。諏訪郡内の豪族はもとより神長官・守矢満実までもが激昂して、継満は「当社大祝とは申し難し」として反旗を翻します。
 継満は孤立しその余党と共に、宮川の安国寺・干沢城に立て篭もります。219日、神長官・守矢満実を始め、矢崎、千野、有賀、小坂、福島などの一族が急襲し陥落させます。継満は杖突峠を越え高遠に逃げますが、その父・伊予守頼満は64歳の高齢で重病でもあったため、逃げきれず捕えられ殺されています。
 下社の大祝・金刺興春は、継満に味方をしていましたし、諏訪家の総領の不在を好機として310日、高島城(茶臼山城;諏訪湖の高島城は豊臣時代以降のものです)を落城させ、さらに桑原武津まで焼き払い、上原に攻め込もうとします。神長官・守矢満実らは先の310日、敵の攻撃に備えて高鳥屋城(たかとやじょう;桑原城)に総領家一族と共に立て篭もっていました。
 守矢満実の子の守矢継実、政美は、矢崎、千野、有賀、小坂、福島などの一族と共に逆襲に転じ、逆に金刺興春の軍を破り、勝ちに乗じて下社に達し、その社殿を焼き払い、興春を討取ります。その首は諏訪市湖南にあった大熊城に2昼夜さらされます。興春亡き後、諏訪下社大祝はその子の盛昌、孫の昌春と代を重ね、上下社間の争闘は続きますが、このころから下社方の勢力は衰微します。
 文明16(1484)126日、謀殺された政満の第2子・宮法師丸、後の頼満が高鳥屋外城神殿(普門寺の御社宮司平;みしやぐじだいら)で精進潔斎を始め、28日には上社大祝となります。わずか5歳でした。総領家と大祝家に2分されていた諏訪氏勢力が一体化します。永正15(1518)、上社総領家・諏訪頼満は下社に侵攻します。 金刺昌春は下諏訪町にあった山吹城で防戦しますが、たちまち破られ、最後は砥川と東俣川の合流地・萩倉の要害に篭ります。終に金刺氏はここに滅亡します。こうして戦国時代に下社大祝金刺氏が滅び、社殿も相次いで焼亡して、一時全く荒廃します。金刺氏の後継として支族の今井氏が入って武居祝(たけいはふり)と称することになり、以後、下社では大祝を名乗ることはありません。近世に入って武居祝の童男(お・ぐな)をもって大祝としますが、これは名目的なものにすぎず、上社が優位であるのは変わりません。
 萩倉城を落とされた下社の大祝昌春は、甲斐の武田信虎を頼って落ち延びます。これが信虎に諏訪郡侵攻の口実を与えるところとなり、享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻します。このときは、諏訪氏がよく戦い武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎にまで進出しています。武田氏の力を借りて下社再興を目論んだ昌春は、享禄四年(1531)に飯富兵部らが信虎に反乱を起した時に戦死したと伝えられています。
 かくして、代々下社大祝職を継いできた金刺氏であったが、戦国時代末期に至って断絶となり、諏訪頼満は上原城の居館を拠点として、諏訪一円を支配したのです。後世頼満は、諏訪家中興の英主と称えられます。甲斐を統一した武田信虎(武田信玄の父)と互角に戦います。
 こうして下社の御射山祭は一度衰微します。江戸時代、下社がある下諏訪の地が中山道の宿場町として繁栄を極めると、元禄年間(16881704)に、標高1,600mの霧ケ峰西南部、八島の高地から約4k南の下社に近く、神事に都合のよい、商人の町・下諏訪宿場町に御射山は移され、今日に至たります。

 古代から諏訪信仰の現人神(あらひとがみ)として祭政をつかさどった大祝(おおはふり)家の諏訪市中洲の建物と史料が、諏訪市に寄付されることが決まりました。居宅一帯はこれまで、信仰遺跡として史跡保存の動きがあったものの、所有権などが絡み具体化しませんでした。市教育委員会は「貴重な文化財を守る活路になる」と期待しています。 大祝は、古代から中世までは領主として政治権力も握っていました。代々世襲の「諏訪氏」を名乗り、江戸時代からは藩主の「諏訪氏」と政教を分離し、神職の世襲制度が廃止された明治時代まで続いていました。大名家は明治維新後、子爵に叙されました。居館はもともと諏訪大社前宮(茅野市)付近にありましたが、16世紀までに現在の中洲の地に移ったとされています。2002年に諏訪家の当主が亡くなり、家系も途絶え、相続財産の清算手続きの中で今回の寄付が決まりました。
   

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