諏訪の由来 諏訪の語源 諏訪の字源 諏訪の意味
『洲』とは、川・湖・海の底に土砂がたまり、高く盛り上がり水面上に現れた干潟で、河口付近等の比較的浅い場所にできる。 Top

みづうみの 氷は解けて なほ寒し 三日月の影 波にうつろふ

夕焼空 焦げきはまれる 下にして 氷らんとする 湖のしづけさ

信濃路は いつ春ならん 夕づく日 入りてしまらく 黄なる空のいろ


                                           島木 赤彦

 諏訪の地名の字源と語源

   『古事記』では建御名方神(たけみなかたのかみ)が「科野国洲羽海」に逃れ来たとある。『日本書紀』では「須波」、持統天皇の勅祭に関する記述では「須波神」としている。『令集解(りょうのしゅうげ)』では須芳山嶺(すわやまのね)の道を改修したと記している。『延喜式』神名帳では「諏方」とあり、上社『大祝信重解状』の藤島社伝説で「藤諏方ノ森」と書いている。平安時代初期の『倭名類聚抄』で初めて「諏訪」と「方」に「言」の偏がつく。
 和銅6(713)年の『続日本紀』に「畿内7道諸国郡郷の名は好字を用いよ」と令したと述べられている。しかし諏訪の字は、その後も一貫しない。
 江戸時代の初め諏訪郡主頼忠は、長男頼水を高島藩初代藩主とし、4男頼広を上社大祝に立てた。以後その嫡流が、それぞれ継承する祭政分離をした。そして「藩主家」は「諏訪」を、「大祝家」は「諏方」を「姓」とした。
 正保4(1647)年に作成された『正保信濃国絵図』には「高島藩諏訪出雲守居城」とある。隣藩松本藩が享保9(1724)年に編纂した『信府統紀』には「諏方大祝部は代々諏方氏なり、近年守護の名字は諏訪と書く、神職には下の字の偏を除きて、諏方と書くとかや」と記録している。江戸期になると「藩主家」と「大祝家」の表記を変えていたことが分かる。
 中世・近世では「諏方」が多く用いられている。天保5(1834)年、高島藩は「2月6日以後は諏訪と書くよう」藩命を出している。しかし江戸時代後期の編纂物の多くは「諏方」を用いている。明治6年の町制施行で上諏訪町となり、昭和16年、諏訪市制施行となり、現代では「諏訪」が主流となる。 諏訪の語源も諸説あって 本居宣長の「古事記伝」で、国ゆずりの神話から、スワ地方は行きずまり、すぼまりの地形から「建御名方神の出雲より逃れ来て、此湖岸に至り、終に道絶え逃るすべなく、須夫麻理太(すぶまりた)へる由の名にやと」説き、それを簡略化して「スワ」となったとしている。平田篤胤は『古事記伝』で、同じく国ゆずりの神話から、建御名方刀美神が「すは此処ぞ我が住むべき国也」と言ったからとしている。いずれも空疎で牽強に過ぎる。
 古代の諏訪湖の風景と地形を想像すれば「洲輪」が浮かぶ、湖岸の光景と湖の波うつ情景からは「須波」「洲波」が発想される。建御名方神の名前の由来は水潟(みなかた)に通じる。諏訪の現在の地形は、氷河期の終わり頃に形成された。諏訪湖東岸大和(おわ)から四賀までの山麓とその山間の谷が台地を構成して、長い干潟を通して諏訪湖に臨んでいた。現在の諏訪市役所や警察署の周囲は、湖面であった。湖の南方に広がる沖積地は、坂室から木船に至るまで入り江と湿地が入り組んでいた。湖南(こなみ)西部は沖積地から急峻な傾斜で山地にかけ上がっていた。しかし現在の小坂から中州、高部、宮川までは湖岸沿いに、広い扇状台地が展開していたであろう。
 『倭名類聚抄』には「菅郷」は土武・佐補・美和・桑原・神戸・山鹿・弖良の7郷とあり現在の上伊那も含まれていた。室町時代初期に作成された「諏方大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」には、「信州の至り給えし時、伊那郡と諏訪郡との堺に大田切と云う所にて」とあり、当時の諏訪郡は現在の駒ヶ根市の大田切川以北にまで及んでいた。「菅郷」の音読み「スゲ」が諏訪に転化したと言われれば、菅が多く繁茂する高原台地であったであろうから大いに説得力がある。

 諏訪湖の標高は759m、芦ノ湖の725mを超えている。

  諏訪湖周辺の宿、飲食店にみられる屋号「鵞湖(がこ)」の由来は、正安2(1300)年、下諏訪町東町中に慈雲寺を開山した元の渡来僧一山一寧(いつさんいちねい)が名付けた事に始まる。 僧は、台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)の出身で、中国の信州、現在の江西省鉛山県の鵞湖を、日本の信州諏訪湖の美称とした。
 世祖(クビライ)の後を継いだ成宗が、日本を属国化するため、愚渓に3度目の使者を命ずるが、度重なる難船で老弱となり、代わりに愚渓の後継で観音寺の住職となった一山一寧を推薦した。 成宗は一山一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本の朝貢を命じる国使に任じた。正安元(1299)年に博多入りするも、伊豆の修禅寺に幽閉された。その学識が知れ渡ると、執権北条貞時は鎌倉近くの草庵に移した。僧俗問わず連日、その草庵を訪れた。貞時も厚遇し衰退していた鎌倉の建長寺を再建し、その住持として迎えた。
 後に浄智寺を経て、正和2(1313)年、規庵祖円禅師の後継として、後宇多法皇の招請をうけ、京にのぼり南禅寺の住持となり、文保元(1317)年10月24日に南禅寺で逝去した。71才であった。

 高島藩3代藩主諏訪忠晴は絵画をよくし、文才もあり、鵞湖子を号した。大坂城山里御門番江戸火消役等の政務に励む一方、寛文41644)年、諏訪市博物館の所蔵の「御枕屏風(おまくらびょうぶ)」六曲一双を画工に命じて作製させた。諏訪市有形文化財となっている。当時の諏訪地域全域が俯瞰的に描かれ、江戸前期の村落配置や高島城、城下町等の成立期に近い様子をうかがい知ることのできる。屏風の左隻は諏訪湖、高島城、城下町、宿場町、主な河川、街道等が画題で、諏訪湖上で投網をする漁師や、天竜川への流入部・弁天島も見える。右隻には雪の八ケ岳と、その山麓の集落が描写され、頼岳寺や諏訪大社上社、神宮寺等は、特に細密に描かれている。
  5代藩主忠林(ただとき)は生来から病弱だったため、藩政から逃避して学問の世界にのめり込んだ。詩人としては一流で鵞湖詩と号し、漢詩に鵞湖を多く詠み、以来広く詩文に採り上げられ有名になった。


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