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車山火山史 イメージ
車山創生記

1)車山連峰の火山群
 蓼科山・八ヶ岳は火山列でありましたが、 車山連峰の火山群の活動も活発でした。第3紀鮮新世(700万〜200万年前)末期から第4紀更新世前期の約140万年前にかけて活動した古期の火山活動は、火砕流を主体として溶岩流(安山岩)を伴い、現在の諏訪盆地を埋め尽くすほどの多量の火山砕(さい)せつ岩類を噴出させました。その後も諏訪盆地は、糸魚川親不知から静岡市安倍川に至る構造線の大断層による活動により沈降を続け、だんだん現在の諏訪平を形成するようになったのです。
 その後の車山連峰の火山群活動は、車山鷲ヶ峰三峰山などが中心となり、火砕流から溶岩流を主体とした活動に変わっていきました。第4紀更新世前期の今から130万年前から60万年前にかけてが最も盛んでした。この新期の火山活動は、北西の三峰山地域から始まり、北東の虫倉山、南東の八子ヶ峰などで、日本の火山に多く産出する安山岩を主とした噴出物を堆積させました。
 そして、虫倉山の南南東と八子ヶ峰の北北東側では断層活動が起こり、鷹山断層八子ヶ峰断層が生じました。この二つの断層に挟まれた谷が、いわゆる火山性地溝と呼ばれるもので、大門川沿いの大門街道とほぼ一致いたします。そして最後の火山活動は、三峰から始まり、和田峠、鷲ヶ峰、霧ヶ峰高原の順で活動し、最後の車山の活動で、その何百万年と続いた霧ヶ峰火山群の活動も、漸く終息します。
 その間、和田峠の南南東では、比較的均質で柔らかい細粒の灰色系の角閃石(かくせんせき)安山岩を主体とした噴出活動が起こり、鷲ヶ峰を形成しました。この角閃石安山岩は、主に石鏃に用いられた黒曜石と異なり、弥生時代には、紡錘車や錘(おもり)の材料として使われました。また、車山連峰の南山麓、諏訪湖カントリークラブの西方、諏訪市上諏訪福沢山から唐沢山で、粘性のかんらん石輝石安山岩が噴出しました。鉄平石はこの溶岩が冷却する過程で生じた板状節理(広く群をなして配列する割れ目)により生成した安山岩です。
 霧ヶ峰の火山活動では、次第に流動性に富む角閃石輝石安山岩を主体とした溶岩が広域に分布し、現在のアスピーテ火山特有のなだらかな高原台地を形成しました。
 車山火山群の活動の末期には、粘性の増したかんらん石輝石安山岩を噴出させ、車山山頂部を形成しました。車山に鉄平石が多いのは、そのためです。山頂の南側、カシガリ山を見下ろす位置に、車山火山最末期の活動による爆裂火口と推定される馬蹄形の柱状節理による断崖が見られます。爆裂火口とは、主として水蒸気爆発により既存の火山体の一部が吹き飛ばされて生じた火口で主に山腹にできます。爆裂火口はその火口底から上方に放射状の谷が形成されている例が多く、全体的に馬蹄形、漏斗(ろうと;じょうご)状の形態を現します。

2)木曽御嶽山と乗鞍岳が形成する諏訪地方のローム層
 こうして車山を最高峰とする現在の八子ヶ峰・霧が峰・八島湿原・男女倉山が、形成されましたが、諏訪地方はこれ以後も、木曽御嶽山乗鞍岳などで頻発する大噴火による噴出灰が、偏西風に乗って、降り積もります。これがローム層と呼ばれる赤土の堆積層です。火山灰は何10万年も、それも無限の回数で積層され続けます。それが諏訪地方の現在の表土となりました。

3)姶良火山
 ところが火山の噴出物は、車山連峰の火山群の活動でもふれましたが、それぞれの各火山と各時期で鉱物の組成が異なります。それで鹿児島県の姶良火山(あいらかざん)の大噴火が、考古学の年代測定の重要な基準になるのです。年代には諸説ありますが、2万9千年から2万8千年前でした。日本列島旧石器時代に大噴火がありました。
 当時、鹿児島の錦江湾に浮かぶ桜島の北部に姶良火山がありました。この姶良火山が歴史上類をみないほどの超巨大噴火を起こしました。この噴火による噴出物・ガラス質火山灰を、現在、九州地区では「シラス」と呼んでいます。噴出物は鹿児島では10m以上の地層を形成します。これをシラス台地といいます。
 このときの噴出物は偏西風にのって全国に降り積もり、中国地方で20cm、関東でも10cm、北海道でも5mmほど確認されています。なお噴火は何年もかかったわけではなく、わずか、数日から数ヶ月の出来事で地質学的には、全国に分布している「シラス」の地層がその地方の地層の年代を測る目印になっています。
 この時代は氷河期4回目のピークで、人類の歴史上、先土器時代・旧石器時代にあたります、道具は未熟な石器のみで、土器はありません。石器包含層に火山灰の降下が多く、寒冷気候の厳しさを植生が証明する時代でした。
 日本列島の旧石器時代は、約3万5千年から1万8千年前のナイフ形石器文化、それに続く細石刃文化が1万6千年前までの旧石器時代の最終段階で、それが縄文時代草創期文化に繋がることも火山灰土層の重なりで確認できます。
 近年一時期、放射性炭素年代測定法が絶対年代を割り出すとされてきました。理化学の進歩により、現段階でも多くの遺跡・遺物の年代測定が初手から に頼らざるをえませんが、それを活用しても未だ一つの目安に過ぎません。残念ながら、造山活動による層位学研究と遺物による型式学研究に依然として頼らざるを得ません。
 姶良火山の大噴火は約9万年前のA−Fk層、5万年前のA−Iw層及び2万8千年前のA−T層の3回が知られています。A−T層は特に姶良Tn火山灰と呼ばれています。

 姶良火山は当時の大噴火により陥没して姶良カルデラが形成され、姶良火山自体は消滅して今の錦江湾の桜島北部に湾奥部ができました。桜島はそのカルデラの南縁に1万年ほど前に成長した火山です。諏訪の各地でも、その降灰が認められています。

雪不知遺跡
 和田峠・星ヶ台・星糞峠とその周辺で採取できる黒曜石は、ガラス質の火山岩で流紋岩質や安山岩質のマグマが冷えて固まったものです。
 昭和27(1952)年にビーナスライン・観光道路開削工事をする際に松沢亜生(つぎお)が調査を行ない、多量の黒曜石の石器と遺物が露出しているのを発見し、はるか3万年を越える以前からの旧石器時代の遺跡が確認されました。「八島遺跡群」発掘の発端です。現在、10数箇所で先土器時代遺跡が発見されています。全体を総称して「八島遺跡群」といいます。さらに多くの旧石器時代の遺跡が埋もれていると考えられます。遺跡全体の調査が不十分で、未発見の遺跡も多いので、遺跡分布状態は定かでありません。
 昭和30(1955)年に、当時大学生だった戸沢充則(元明治大学学長)・松沢らが調査をしました。 発掘の面積は3×1.5mのピットを4カ所掘ったにすぎなかった。それにもかかわらず5,000点以上の石器が出土しました。そのことから、遺跡全体に埋蔵されている石器は、きわめて大量であろうと考えらました。出土した石器は、尖頭器(せんとうき)・ナイフ形石器・掻器(そうき)・石刃(せきじん)・彫器などの器種が主で、特に尖頭器の分析が戸沢教授によって行なわれ、尖頭器研究に画期的示唆を与えられました。戸沢教授は調査報告書で「大小の黒曜石片がほとんど敷き詰められるほどに濃い包含状態を示していた」と・・・黒曜石原産地に近く、その豊富な材料の中、石器作りに勤しんでいたといえます。
 雪不知遺跡は、八島湿原の北東、標高1,650mに位置する日本で最高位にある遺跡です。男女倉山(おめぐらやま)と物見石(ものみいわ)に挟まれた沢沿いで、八島湿原を一望する小高い台地に、雪不知という地籍があります。昭和38(1963)年発掘されました。規模は小さく、ナイフ形石器雪不知掻器(そうき)などが出土しました。特にナイフ形石器は、諏訪圏内では最高レベルの加工技術だそうです。八島遺跡物見岩遺跡などと、氷河期の旧石器時代の黒耀石加工に 関わる遺跡です。
 「八島遺跡群」が語るものは、黒曜石採掘と石器生産、その流通を生業する小集落が、何万年に亘り集聚していた事実です。