小笠原政康 信濃国を制覇する       Top

 目次
 1)牧之島城主香坂氏
 2)3代将軍義満の専制
 3)小笠原政康「大塔合戦」後の復権
 4)小笠原政康の台頭
 5)大井氏鹿曲川を越える
 6)依田氏芦田に侵出
 7)依田氏室町幕府に臣従する
 8)芦田氏滅亡
 9)永享の乱
 10)結城合戦と信濃武士
 11)小笠原氏の内紛【嘉吉の内訌】


1)牧之島城主香坂氏

牧之島城を掘りのように囲む犀川
 牧之島城を掘のように囲む犀川

 滋野氏の一族が佐久郡香坂に住んで香坂氏を称した。その居住地は現佐久市香坂西地、香坂川流れる閼伽流(あかる)山麓辺りと考えられている。香坂家の初代宗清は、東信の名族滋野3家の一族で佐久の在地武士であった。鎌倉時代、香坂宗清は将軍家御家人となり、鎌倉6代の最初の皇族将軍宗尊親王の時代、文元(1260)年のころ、更級郡の南内、北内の2牧を与えられ、その一族が佐久から移り牧之島城(牧城まきしろ;旧上水内郡信州新町牧野島城)を本拠とした。当地で私牧を経営したようだ。馬の飼育は古代から中世にかけ、最大にして重要不可欠な産業であった。
 また鎌倉時代に確立した武家政治の成果により、功績のある地士が、由縁もなく広く遠く領主に任じられ、その一族が派遣され、その地の地名を氏名として自立していく時代であった。その後の香坂氏は、更埴人名辞書によると、2代目宗敦、3代目宗実、4代目安芸守、5代目出羽権守の時代と続いた。
 元弘元(1331)年8月27日、後醍醐天皇による倒幕計画が漏洩したため、急遽、奈良北東山中の笠置寺へ遷幸することになった。六波羅探題は直ちに笠置山へ派兵した。9月11日、楠木正成が御所方と称し赤坂山に砦を構えた。六波羅北方北条仲時は、鎌倉へ幕府軍増援を要請した。9月20日、大軍が鎌倉を出立した。
 伊勢市光明寺所蔵の鎌倉幕府末期の元弘元年8月24日から後醍醐天皇が六波羅探題の追及を避け吉野に逃れる同年10月16までの、幕府側で在京していた者たちの日記の断片集『光明寺残篇』には、笠置山・赤坂山に進発する幕府軍の交名(きょうみょう)があり、香坂出羽権守の名がある。
 元弘3(1333)年、有力御家人でありながらも、源氏嫡流滅亡後の源氏の名族足利尊氏新田義貞の裏切りにより鎌倉幕府北条高時が滅びた。以後、香坂氏は、滋野一党として諏訪上社大祝とともに反足利尊氏として戦い続けた。後醍醐天皇の綸旨が建武3(1336)年正月に発せられ、信濃守小笠原貞宗に討伐が命じられた。総大将村上信貞率いる市河経助高梨時綱などが、香坂氏6代の入道覚心が籠城する牧城を攻めたが落城することはなかった。
 この戦いで、村上信貞が市河経助に宛てた軍忠状が「市河文書」に遺り「香坂小太郎入道以下凶徒等、楯籠当國牧城之間云々・・」承了、村上信貞の花押がある。
 中先代の乱を契機に南北朝対立が起こり、暦応元(1338)年、足利尊氏により足利幕府が開かれた。信濃國においても守護職は、小笠原から上杉朝房そして斯波義種、その兄斯波義将と移り、その都度小競り合いがあった。

2)3代将軍義満の専制

 足利3代将軍義満は永和4(1378)年、室町の地に花の御所を造営し幕府を移し、将軍の直轄軍となる奉公衆を増強した。義満は、反幕勢力を制圧し、将軍専制を築きながら将軍職在任のまま、永徳2(1382)年には左大臣、翌年には准三后(じゅさんこう)の宣下を受けた。応永元(1394)年には将軍職を子の義持に譲り太政大臣となったが、「政道は自ら行う」と表明し、実権は従前どおり握ったまま、むしろ足利幕府の全盛期を迎え薨ずるまで公武に君臨した。翌年太政大臣を辞して出家し、ついで北山第(きたやまてい)を上皇の仙洞(せんとう)御所に擬して造営した。金閣はこの山荘の一部で、義満はここで政務をとり、有力守護大名を粛清していった。
 康応元(1389)年、丹波・丹後・但馬・因幡・美作・伯耆・出雲・備後・隠岐・紀伊・和泉の11か国の守護で六分一衆(ろくぶんのいちしゅう)・六分一殿といわれた山名氏一族に継承問題が生じた。義満は、これに介入し内紛を誘発させ、山名氏が混迷する最中、仙洞料所の押領を口実に責め立て、丹後守護氏清と伯耆・隠岐の守護満幸を困窮させ挙兵を誘った。明徳2(1391)年12月30日、京都内野(うちの;二条城の北西、上京区と中京)の合戦で、大内義弘・畠山・細川らの幕府有力大名軍により氏清は討ちとられた(明徳の乱)。満幸は出雲に逃れたが、応永元(1394)年に討たれている。事後、山名時煕(ときひろ)に但馬、同氏幸に伯耆の守護職が与えられ、残りの山名氏の旧領は、反乱鎮定に功があった畠山・大内・一色・赤松諸氏に分与され、山名氏の勢力は一挙に縮減した。
 嘉慶元(1387)年、土岐氏の惣領、美濃・尾張・伊勢の東海道の要衝3か国の守護を兼ねる頼康が没して甥の康行が養嗣子として家督を継いだのを好機とし、将軍義満が有力守護大名土岐氏の勢力を削ぐため、守護職を康行に美濃と伊勢、その弟で義満の近習だった満貞に尾張と分け与え一族の内紛を誘った。康行は義満の挑発に乗り挙兵する。康行の叔父頼忠は幕府軍に味方して次男の頼益とともに康行の討伐に向かった。明徳元(1390)年、康行は敗れて没落した(土岐康行の乱)。義満は、土岐氏が清和源氏の後裔であり、尊氏挙兵後、南朝との戦いで数々の戦功をあげた名族であったため、その断絶は避けた。土岐氏内紛に際し、幕府軍方として参戦した高齢の頼忠を美濃守護職に任じた。翌年、弟の満貞も、明徳の乱の際、内野の合戦において卑怯な行動をとったとして尾張守護職を罷免された。一方、康行は幕府方として参戦し、戦功があったとして伊勢守護に返り咲いた。
 大内義弘は、父弘世時代の周防・長門2か国の守護を承継し、自らの功績により、石見、豊前の守護職にも補任された。九州探題今川貞世了俊に従い転戦し、永和3(1377)年には懐良(かねよし)親王を奉ずる菊池武朝に大勝する戦功を挙げている。明徳の乱では幕府軍主将として山名氏清を討ち取り、その功により山名氏の旧領国である和泉、紀伊の守護職も兼務した。
 大内氏の画期は南北朝合体の斡旋を成し遂げ、朝鮮や中国に近い地の利を活かし、幕府と朝鮮の交易を仲介し、自らも直接、朝鮮と通商し巨大な富を蓄えた事にあった。大陸との交易を推進する義満にとって、朝鮮と強いつながりがある義弘の存在が不快となり、強盛を誇る義弘が将軍専制実現のための次ぎの標的にされた。応永4(1397)年、義満は北山第の造営を開始した。諸大名に人役(にんやく)の供出を命じた。義弘だけが「武士は弓矢をもって奉公するもの」とこれに従わず、義満の不興を買った。
 同年末、義弘は、南朝方が衰退した後も、豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗を続ける少弐氏の討伐を命じられた。その筑前国の戦いで弟の満弘が討死するが、その恩賞の沙汰が無く憤慨していた。間もなく義満が、裏で少弐氏と菊地氏に義弘を討つように命じていたと、噂が広まり疑心暗鬼となった。
 翌応永5年、義満は将軍の補佐と政務を総覧する足利一門斯波氏・細川氏・畠山氏の「三管領家」と武士軍団組織を統轄する侍所頭人赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏の「所司四家」を置き幕府制度を確立した。
 同年来日した朝鮮使節が、義弘に莫大な進物を贈ったことを根拠に、管領斯波義将が「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に告発した。それが義弘に聞こえた。義満は度々義弘へ上洛を促すが、「上洛したところを誅殺される」「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」などの噂が流れ、義弘は追い詰められていく。遂に義弘は関東公方足利満兼と密約を結び、応永6(1399)年10月、領国和泉の堺に上陸し挙兵した。12月21日、幕府軍の総攻撃により堺で討ちとられた(応永の乱)。

 応永6(1399)年、信濃守護に小笠原長秀が補任した。これに信濃国衆が反抗したのが、翌年の大塔合戦であった。村上満信を盟主として、佐久3家、大文字一揆、そして北・中信地方の有力国人領主の国人一揆との大連合軍が結集して守護長秀に反旗を翻した。信濃における最大の国衆一揆となった。犀川流域の国衆の連合は「大」の字を旗印にしたため「大文字一揆」と言われた。落合・小田切・仁科・祢津・春日・香坂・宮高・西牧・落合・小田切・窪寺などの諸氏の名があり、その時加わった牧城の9代目城主が香坂左馬入道宗継であった。
 大文字一揆軍は善光寺から塩崎城へ逃走する小笠原長秀軍500騎近くを追い詰めた。小笠原一族坂西(ばんざい)長国をはじめ古米入道・飯田入道・常葉(とこは)入道等300余騎は進路を断たれ、途中の大塔の古砦(こさい)に逃げ込んだ。追われて籠城したため、兵糧や武器の備えも不十分で、飢餓に苦しみ馬を殺して食べたが、23日間の籠城の後、最後の決戦に打って出て全員討死した。雑人まで含めれば、千を超える屍が野晒しとなった。その惨劇が報らされると、善光寺妻戸時宗僧や善光寺別院不捨山光明院十念寺の勧進上人が駆け付け、無惨な遺体を集めては火葬し骨塚を築き、弥陀引摂(いんじょう)の供養を行った。
 一揆軍で主動的役割を果たした牧城の城主香坂宗継は、戦場から直ちに窪寺観音堂(長野市安茂里)に籠り、必死に道心堅固の請願の行をなすと、跡職(あとしき)を子の刑部少補(牧城主10代目の香坂徳本)に譲り、高野山の萱堂で読経三昧の日々を送った。後年、念仏行者の姿で諸国を巡行する。

 この戦いを傍観していた佐久の守護代大井光矩は、小笠原と同族で放置もできず、村上満信と和解の斡旋を行い、一揆の引き上げの諒承を得、小笠原長秀は命からがら京都へ戻り、翌年2月頃、小笠原家は守護職を解任された。守護が領国支配を口実に、非分の押領などとして、在地領主の所領を併呑する強権策に対抗する国衆一揆であった。山城一揆に先立つこと85年の成功例である。長秀には、実子がいないこともあり、応永12年11月、一族の惣領職と所領の一切を弟の政康に譲った。これが、「大塔合戦」と呼ばれる戦いの顛末であった。

 義満は北山第に公武上層の顕官を集めて、和歌、連歌、管弦、猿楽など種々の催しに興じ、宋・元の名画を収集し、鎌倉時代以来の五山文学と共鳴し、ここに北山文化を花開かせた。

3)小笠原政康「大塔合戦」後の復権
 名実共に国内の政治と軍事を一手に掌握した足利義満が、信濃国衆による自らが補任した守護への反乱を黙視するはずがなかった。「大塔合戦」後、一旦信濃守護職に前管領斯波義将を復帰させた。応永8年4月5日、越前国守護であった義将は嶋田常永を守護代に任じ京を発たせた。
 村上頼信を盟主とする国衆一揆が再燃した。その2か月後の6月25日、市河頼房(興仙)の所領(高井郡)中野西条の地を、須田・井上・高梨などの国人が押領したとの訴えが幕府にあった。義将は嶋田常永にその処置を教書で命じるだけで、幕府の威令は実効を上げなかった。
 大塔合戦で守護方は大敗北した。そのまま国人層の既成勢力圏を放任すれば、何らかの口実をたてて国衆の新勢力が割り込んできて、「濫妨違乱」などに及び自己の侵略地を既成事実化し積み重ねていく。特に国衙領春近領が多い北信から東信にかけて、所領支配が複雑に交錯していた。幕府は国衆統御のため信濃国を直轄領とし乗り出して来た。応永9年5月、幕府は幕府奉行人の依田左衛門大夫・飯尾左近将監為清を代官に任じ派遣した。両名は翌6月に信濃に下向した。9月、幕府は代官を細川慈忠に代えた。その際、市河氏の所領「中野西条・若槻新庄加佐郷・静妻郷北蓮・常岩御牧内布施田郷」など6か所を安堵した。その6か所の所領は、北端の平瀬から南端の加佐郷めで30余kmにわたって点々と配置され、他の多くの土地領有者がモザイク状に入り組んでいた。飯山周辺の千曲川左岸の当地を、高梨氏・泉氏など大小の国衆が、その勢力圏を既成事実化していた。
 村上満信・大井・伴野・井上氏は幕府に従わず、翌応永10年に大乱が再発する。幕府は反抗する国衆勢力を個別に征伐する戦略をたてた。同年7月から10月に掛けて、細川慈忠は市河氏を率いて、須田・大井・伴野・井上氏の一揆衆と、犀川の南方、更級郡壇原(段の原)・埴科郡生仁城(更埴市雨宮)・更級郡塩崎新城(長野市篠ノ井塩崎)などで戦っている。翌応永11年(1404)9月、同じく細川慈忠・市河氏が高梨左馬助ら国人層の反抗を鎮圧するため奥郡に発向した。水内の桐原・若槻・下芋河・加佐・蓮から更に高井郡の東条まで侵攻した。幕府方の市川氏幸らは「桐原若槻下芋河之要害(長野市浅川)」を攻め落とすことにも成功している。応永22(1415)年6月、幕府代官と市河氏は須田城(須坂市小山町)に拠る須田氏を討伐した。こうして北信の雄族井上・須田・高梨の各氏は平定されていった。

 応永30(1423)年の7月から8月にかけ、小笠原政康は幕府と結び、高梨朝高と現中野付近で戦っている。これ以後市河氏に代わり、政康の活躍が目立つ。幕府料国であった信濃が応永32年に解かれ、同年12月、25年ぶりに小笠原氏に守護職が戻り、政康が補任した。

4)小笠原政康の台頭
 応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」が起こると、小笠原政康が中心になって一族・国衆を率いて信濃国の防禦を固めた。この乱を契機として政康は、信濃国内の軍事指揮権を掌握する。
 甲斐守護武田信満は禅秀の舅であった関係からそれに与し討死した。甲斐武田氏は滅亡の危機に瀕した。守護不在となると、甲斐の国人衆が自衛のため一揆を組み、相互の勢力争いが拡大し混乱を極めた。応永25(1418)年、将軍義持は甲斐鎮定の抑えとして信満の弟武田信元(穴山 満春)を新守護に任じるが、国内に自立する国衆勢によって信元は入国を阻まれた。小笠原政康の支援により、ようやく信元は入国ができた。甲斐守護家武田氏の権威はまったく地に落ちていた。
 同年9月、兄長秀が失った住吉庄と春近領が政康に返付された。この返還は、応永22(1415)年12月、その長秀に還付される沙汰があったが、大文字一揆の国衆が幕府に注進状を提出し異議を申し立てた。幕府は今更に長秀に対する国衆の激しい反感を知り、冷却期間を3年間置き政康に代え与えた。これを契機に政康の人望が高まった。
  応永32(1425)年2月29日、将軍義持は政康を信濃守護職に任命した。その補任状には
「信濃国守護職事、所補任小笠原治部大輔入道政透(政康)也者、早守先例、可致沙汰之状如件」とある。
 本領知行が復帰され、小笠原氏は守護職に25年目にようやく復帰した。政康の入部は翌年夏の頃で、将軍義持から入国祝として8月、太刀一腰(ひとこし)が授けられた。
 翌年正月23日、その戦功を賞するとともに「何事も今川駿河入道範政と談合していよいよ戦功を励むように」と申しつけている。
 駿河今川家4代の当主範政は、3代将軍義満が薨去した翌年の応永16(1409)年、父泰範から駿河国守護のみを相続した。遠江国守護職は斯波氏に移っている。「上杉禅秀の乱」では上杉氏憲(禅秀)の攻撃を受けて、鎌倉から駿府の瀬名に逃亡してきた鎌倉公方足利持氏を保護した。義持の命を受けて軍を率いて越後守護上杉房方らと共に鎌倉に攻め入り、禅秀ら一門を自刃させた。
 「上杉禅秀の乱」は3か月余りで鎮圧されたが、その後も足利持氏は禅秀与党を討伐し続け7年が経過した。その中には京都の将軍と深く結びついている勢力が多く、次第に鎌倉府は京政府との関係が悪化していった。幕府は常陸を中心に親幕府派豪族を結集し、持氏を封じ込めようとしていた。

 正長元(1428)年の土一揆以後、近畿地方から庶民百姓の一揆が活発化する。坂本の馬借の蜂起が口火となり徳政令を求める近畿一帯の一揆勢はあなどり難く、政康は幕府の命により上洛したが、鎮圧には難儀している。延暦寺衆徒の蜂起では、山名持豊と協力し、ようやく鎮圧させた。既に、一国の守護の力量程度では、国内を制圧できない時代となっていた。ましてや在地領主は、その支配地の武力の拠り所が農兵であり、平時における生産者であれば、農政と灌漑両面で、その力量が問われることになる。その大前提を踏まえた上で実績を挙げ、政康は幕府に信任されていく。

 永享6(1434)、7年と京都将軍家と関東管領家との軋轢が強まっていった。幕府が関東分国に通じる東海道と東山道の要衝を確保すると、建武の新政下、信濃国内に権益と所領を拡大してきた村上氏の権勢が相対的に弱まり始めた。村上頼清は、遂に政康に敗れ鎌倉公方持氏に加勢を求めた。持氏はこれに介入し、頼清に助勢するため側近であった宅間上杉家の上杉憲直(のりなお)や、鎌倉の関東公方衆を束ねる御一家衆の重臣一色直兼(なおかね)、上野国の桃井直弘那波上総介宗元高山修理亮らを派兵した。
  鎌倉府の管轄は、本来、関東諸国と伊豆・甲斐・陸奥・出羽のみで、鎌倉府が信州に介入してはならないはずであり、この頃から、鎌倉府と室町幕府の関係は険悪を極めていった。管領上杉憲実は、「信州は今、関東料国ではない。幕府管轄下にある。信濃守護小笠原を討つ事は、幕府に戦いを挑むことになる」と強硬にこの出兵を諫止した。持氏は折り合ったが、信濃方面軍は解散しなかった。
 永享7(1435)年、将軍職就任の野望を持つ関東公方足利持氏と将軍義教との関係が険悪になってきた。幕府は上野国に通じる佐久郡を戦略的要地として、同地で対立する大井氏と芦田氏の抗争の調停を守護小笠原政康に命じた。

5)大井氏鹿曲川を越える
 京都醍醐寺の座主満済は、二条家の庶流今小路(いまこうじ)家の出身で、3大将軍義満の猶子となり醍醐寺の三宝院実済(さんぼういんじっさい)の弟子として得度、その後報恩院隆源(ほうおんいんりゅうげん)にも師事した。正長元(1428)年には三宝院門跡(もんぜき)としては、初めて皇后・皇太后・太皇太后に准ずる准后(じゅごう)として待遇を受ける立場になった。足利将軍義満・義持・義教(よしのり)の3代の将軍に厚く信任され、「黒衣の宰相」と呼ばれた時代もあった。応永18(1411)年から永享7(1435)年に亘る日記『満済准后日記』が遺っている。その永享7年正月29日の条に
 「廿9日、晴る。早且壇所に渡御す。信濃の小笠原(政康;当時は政透を名乗る)廿6日壇所へ.来る。内々の仰せに依るなり。関東の事について仰せ出さるる旨等具(つぶさ)に仰せ含め了(おわ)んぬ。その御返事の事、また委(くわ)しく御尋ね申し入れ了んぬ。大井と芦田弓矢落居、かたがた然るべく存じ候。佐久郡{信州なり}にこの大井も芦田も要害を構え候。佐久郡を通りて碓氷峠へも、また上野国へも罷り通る可きの間、越後勢を以って大井を御合力候て、芦田を御退治然るべし。大井と小笠原と一所に罷り成り候はば、信州の事は何程あるべく候か。左様に候へば、関東辺の事もまた一方は御用に罷り立つ可きの由存ずと云々。この由申し入るるのところ、越後勢力の事、赤松播磨を以て長尾に仰せつけられる可し云々となる。」に記されている。満済は将軍義教の意向として大井氏の合力を得て芦田を退治すべしと政康に告げている。
 芦田下野守は北佐久郡立科町の芦田を名乗った。芦田氏は、木曽義仲挙兵の根拠地として知られる丸子町の依田を名字とする依田氏の支族とみられている。『尊卑文脈』によれば清和源氏井上氏流の米持(よねもり)氏で、井上頼季井上家光米持光平と続き、光平の第3子光遠が芦田氏を名乗ったとしている。12世紀前半頃、高井郡の須坂辺りに米持郷・塩野郷・小島郷・高梨郷・栃倉郷が成立している。
 芦田二郎光遠の代に立科町芦田古町に隣接する茂田井に拠っても甕(もたい)氏を名乗り、倉見城を構えたという伝承がある。倉見城は「木の宮」に築城され、別名茂田井城と呼ばれたという。「木の宮」は芦田と茂田井の境に在り、ここが現在にも遺る芦田城址であった。15世紀前半、依田氏が当地に入り芦田氏を称して間もなく芦田下野守征伐となった。
 実態は丸子依田の依田氏と岩村田の大井氏が、互いに勢力を拡大し遂に接触した事による。小笠原一族が文治年間の初め頃の1,185年か、その翌年、現根々井や岩村田を中心とした大井庄の地頭として入部し大井氏を名乗った。その千曲川東岸の地から勢力を拡大し、鎌倉末期の嘉歴4年の『上社頭役注文』により、一族が千曲川を越え、更に布施川から鹿曲川(かくまがわ)を越え甕にまで達していた事が知られる。
 矢島地頭    大井六郎入道(大井光盛?佐久市矢嶋の字名が、旧浅科村に遺っている)
 西布施地頭   大井三郎(大井朝行?)
 志津田地頭   地頭不明(北佐久郡望月町協和小平に伝わる詠歌;後の世を ねがう志津田の 里にきて 浮世の身には 仏をがまむ)
 甕郷地頭    大井三郎(大井朝行?)
 とある。大井氏が鹿曲川を越え、遂に膨張する2代勢力大井氏と依田氏が、かつての国衙領の現立科町芦田・横鳥一帯で衝突した。
 『満済准后日記』に記す「佐久郡にこの大井も芦田も要害を構え候」の地は、現在では芦田地籍ではなく茂田井である。その蓼科山から北方になだらかに流れる山稜が尽きる台地に芦田城があった。大井氏は侵出地の出鼻に城を構えられた。

6)依田氏芦田に侵出

 八島ヶ原湿原や和田川を源流とする依田川

 大井氏は小笠原一族として鎌倉幕府、次いで足利幕府と、時の政権与党として活躍し、恩賞として新たに補任される地頭職を積み上げ一族の勢力を伸張させてきた。
 依田氏は鹿教湯を水源とする内村川と合流し依田川左岸に沖積する依田窪を拠点として勢力をはり、その流域の水田を開発し、木曽義仲挙兵の当時、そこを名字の地としていた。義仲が討伐されると、依田庄は頼朝から常陸守護職に任じられた八田知家の3男知基を初代とする下野国茂木郷茂木氏に与えられ、その係累が代官として赴任した。依田氏は丸子の北辺にあたる飯沼を領するだけの小領主となり飯沼氏を称した。その後、北条氏執権時代、得宗家臣となって次第に勢力を回復し、やがて茂木氏から依田庄の支配権を奪還した。鎌倉幕府の滅亡に際しては、足利尊氏に属して依田庄の支配権を維持している。更に南北朝期、依田氏は依田荘全域を確保し丸子郷に進出した。在地の開発領主として台頭し、その痕跡が、水田を一望する下丸子の東の山に近い、「一本松」と呼ばれる塚のある段丘に依田氏の一族常憲の屋敷址として遺る。標高549m、比高10mの屋敷の中心地は40×40mで、土塁として形跡が遺る塚があり、そこからは丸子の諸城が見渡せ、条里遺構が想起される水田地帯が一望される。かつて畑作地となり、その塚は侵食され、各史料も未発見のままで依田常憲について語る術が無い。
 依田氏は常見町そして箱畳峠北嶺に箱山城を築き、更に峠を越え、その東方は御牧原台の丘陵に阻まれるため南下し、現立科方面町の虎御前・五輪久保、その南東広がる水田耕地の戸倉・柳沢・牛鹿(うしろく)・山部に達した。戸倉と柳沢の中間の小高い丘・善正山に善正城(よしまさじょう)址がある。山部を東に下ると芦田川に至り、その周辺が芦田古町で、東の丘陵上に「木の宮」がある。その北方に立科・上田・小諸と八重原から上田原まで遠望できる。この「木の宮」に依田氏は芦田古城を築いた。その丘陵の北端から佐久平が広がっている。名門小笠原・大井氏と異なり違乱押領を重ね、在地領主として強引に支配地を広げてきた一時代の梟雄であった。
将軍義教は、大井支持と決していて、「和睦がならなかったら芦田を滅ぼし、大井氏と一致して関東にあたれば心強い」と小笠原政康に戦略をさずけていた。

7)依田氏室町幕府に臣従する

 丸子城(依田城)址から眺める上田市丸子

 依田氏は南北朝から室町中期の8代将軍足利義政の時代にかけて、室町幕府の要人として活躍している。依田時朝は左近大夫を名のり、法名を元信と称した。応永10(1403)年、4代将軍義持の代であったが、未だ実権を義満が握っていた時代、室町幕府評定衆の着座の順序等を記した『御評定着座次第』の記録が遺る。
 義満が生まれた延文3(1358)年の奉事と、幕府の管領細川頼之が失脚する政変があった康暦元(1379)年の将軍義満が出座した6月廿5日職始の席に、「摂津掃部頭、山城中務少補入道、依田左近入道元信」と左座3番に着座している。この時、依田時朝は「評定衆」であった。しかし義満将軍の専制が次第に実現されると、朝廷と幕府に2分化されていた京都市内の行政権や課税権などが幕府に一元化されると実務官僚の奉行衆が重用される。時朝は貞治2(1363)年から応永4(1371)年までの8年間幕府奉行であった。『御評定着座次第』の永和4(1378)年には、御評定南3番に「依禅」とある。「依禅」とは時朝ともみられている。
 番衆の構成や出仕・宿直の期日などを記した『永享以来御番帳』『文安年中御番帳』によれば、依田九郎が、いずれも一播衆の交名(きょうみょう;人名を列記した文書)に記されている。『御番帳』に載る武士団は将軍に直属した旗本衆である。依田氏も義満の時代以降将軍家直臣となり、北佐久郡進出の後ろ盾としたようだ。

8)芦田氏滅亡
 幕府は、芦田下野守に芦田城(北佐久郡立科町茂田井)の撤去を命じたが拒否され、芦田氏討伐に決した。芦田氏は村上・海野・祢津氏ら国人衆の支援を得、特に村上頼清は関東公方持氏の支援を期待し幕府や小笠原氏に強気に出ていた。しかし村上氏家臣団内で、将軍か鎌倉公方かで、両派が対立していた。
 両者の和睦が成立しないまま、関東の情勢が急となり、義教は小笠原政康に芦田征伐を延期して持氏の謀叛に備えるように命じた。9月、関東公方持氏は、陸奥安積郡(あさかぐん)篠川の足利満貞、常陸の佐竹義憲などを討伐しようとした。将軍義教は、再度、信濃守護政康に芦田方への攻撃を延期し、佐竹氏らの救援を命じた。
 将軍義教の瞬息な対応により、持氏の謀叛は不発に終わり、永享8(1436)年2月、幕府は政康に芦田征伐を命じた。義教は政康を信濃守護として重用し、東北信の国衆を統御させ、関東公方に対する防壁にする狙いがあった。次第に東北信の国人衆の雄、井上・須田・高梨氏は守護勢力に制圧される。しかし、埴科郡の村上頼清、東信の滋野3家(海野・祢津・望月)、諏訪郡の諏訪氏らは、守護に対する南北朝時代からの敵対意識もあって、また守護の所職の拡大を恐れ、鎌倉府の足利持氏と結んでこれに対抗し、芦田氏支持を鮮明にした。
 同年3月、政康は芦田下野討伐軍を動員し、千曲川右岸を遡り小県郡祢津(東御市祢津)を攻め、別府(小諸市別府)・芝生田(しぼうだ;小諸市滋野甲)・南城(みなみじょう; 小諸市甲南城)を攻め落とした。5月18日、将軍義教は小笠原政康に、その戦功として太刀を与えている。祢津・海野氏らは降伏し、孤立した芦田氏も永享8年8月、守護軍に降った。8月3日、再び、将軍義教は政康に、その戦功を賞し太刀を与えている。
 滋野一族海野・弥津両氏は、大塔合戦以後、村上氏ら国人一揆衆と組み、今回も反守護の立場を変えず、強力に芦田下野守を支援していたが、守護小笠原政康に本領の根拠地(旧東部町一帯)まで蹂躙され降伏した。その後、次第に衰退していった。
 村上頼清も永享8(1436)年、政康と更級郡の稲荷山・八幡平で戦うが、有力国衆が続々と服属するか没落し、遂に反守護の有力国衆として唯一残り、同年12月から守護方の攻撃にさらされる。頼清は小笠原政康の軍に敗れ、布施伊豆守を関東へ発遣し関東公方足利持氏に援軍を請うた。しかし関東管領上杉憲実は、将軍家への反乱につながるとして諌止し双方の関係が悪化、ために持氏は出兵ができなくなった。頼清は完全に孤立、翌年8月18日降伏し、小笠原政康の守護の所職に従うことになった。

9)永享の乱
 関東公方足利持氏とその管領上杉憲実との関係が悪化し、永享9(1437)年4月、持氏が憲実を討伐するという風聞が流れ鎌倉中が騒然となった。この結果、持氏の援軍を得られなくなった村上安芸守頼清は、信濃国内で孤立した。やむを得ず幕府に降伏した頼清は、永享9(1437)年8月18日、上京し将軍義政に拝謁した。義政は頼清に剣を与えている。ここに東信地方の国人一揆の争乱は治まり、小笠原政康に国衆は服し、関東出兵の準備が整った。
 鎌倉公方と関東管領の2人の決裂が決定的となったのは永享10(1438)年6月、持氏の嫡子賢王丸の元服に際してのことであった。慣例では、鎌倉公方は元服の際、本家である将軍から偏諱を拝領するはずであった。しかし持氏は将軍足利義教にそれを求めず、賢王丸を義久と名乗らせたのである。しかも「義」の字は将軍代々の通字(とおりじ)であり、これまでの鎌倉公方は「義」の字を尊畏し避けてきた。「義久」という名乗りはそれを無視し、公然と将軍に対抗する姿勢を示しものであった。
 憲実は慣例に従うよう持氏を諫めたが、持氏は耳を貸そうともせず、義久の元服式を鶴岡八幡宮で強行するが、憲実も退かず、元服式に出席することを拒んだ。この時も憲実を討伐するという噂が流れた。これを聞いた憲実は「忠義として持氏の誤りを正そうと諫めたが、それを不忠として討たれることは末代までの恥辱である」と嘆き、憲実は8月14日、鎌倉山ノ内の屋敷を出奔して、分国の上野国白井城(しろい城;群馬県藤岡市西平井)へ帰っていった。
 それを聞いた持氏は8月16日、一色直兼とその甥一色持家らに憲実の討伐を命じ、自らも軍勢を率いて武蔵国府中の高安寺に出陣した。憲実は窮迫し幕府に救援を求めた。一方、京都幕府はこの持氏と憲実が衝突することを早い段階から見越していたようで、7月下旬から8月初旬にかけて、信濃守護小笠原政康・駿河国の今川範忠・甲斐の武田刑部大輔(ぎょうぶたいゆう)信重・越前守護斯波氏の被官朝倉教景(のりかげ)、篠川御所足利満直や南陸奥の伊達持宗・白川氏朝・石橋義久らに、上杉憲実を支援するための出兵準備を命じていた。8月28日、後花園天皇に『持氏討伐』の綸旨を奏請し、憲実・幕府方が「官軍」、持氏方が「賊軍」となった。直ちに諸国の有力武士に軍勢を催促する6代将軍足利義教御内書(ないしょ;将軍の直状:じきじょう:将軍の直接命令書)が遣わされ、幕府軍が編成されるという速さであった。
 総大将は上杉禅秀の遺児持房・教朝とされ、関東地方以外では越前国の朝倉教景、今川上総介範忠、信濃守護小笠原政康、武田刑部大輔信重なども出陣を命じられている。将軍義教は、事前に信濃守護政康に命じて、鎌倉公方に通じていた村上頼清以下信濃国衆を鎮圧させていた。義教は、また上杉憲実にその策を伝えるなど、周到な準備の下、開戦の切掛けを待っていた。幕府追討軍が、官軍として大兵(たいへい)を率いて来ると知り、関東軍の国衆は、鎌倉方持氏の形勢不利と知り、その多くが寝返った。
 永享の乱に際し、小笠原政康は、信濃守護として国人に軍勢催促をし、足利満貞・武田信重らに伍して幕府方上杉憲実軍の有力武将として戦功を挙げた。将軍義教の書状に管領細川持之が発給する9月24日の副状があり
「就房州(上杉憲実)御合力事去六日被出陣之由、御註(注)進之旨令披露候処、目出候由被仰出候(下略)」と小笠原大膳大夫入道殿宛となっている。その戦功の行賞として、美濃国中河御厨の地頭職が義教から政康へ与えられた。中河御厨は伊勢神宮が本所で、かつて越前・尾張・遠江の守護職斯波義郷に与えられていたが、前年の永享8年9月29日、三条中納言宅訪問の帰路、泥酔の上か陸橋から馬もろとも転落し、翌30日に死去していた。享年27。
 9月になると上野国において憲実軍と一色軍、相模国においては幕府軍と持氏軍の戦闘が始まった。幕府軍2万5千が、持氏軍を箱根山越えの風祭(小田原市西部)で打ち破り次いで鎌倉公方方の上杉憲直らを相模の早川尻の合戦で敗走させると、持氏が和議を申し入れてきたが拒否した。この間、持氏方だった三浦時高や二階堂氏も寝返り、10月初めに鎌倉に攻め入り、大倉の御所を焼き討ちした。
 上杉憲実が10月19日に武蔵国分倍河原に着陣した。これを知った持氏の本陣では投降する者や寝返る者があとを絶たず、わずかに残ったのは譜代の近臣や宗徒だけとなった。敗走する持氏は、上杉憲直・一色直兼など主だった武将らを討ち取られ、既に鎌倉は裏切った三浦氏や二階堂氏が制圧していた。11月2日、憲実の家宰長尾忠政軍と相模国葛原(藤沢市葛原)で遭遇して降参した。讒臣を退けるという約束で出家が許された。
 将軍義教は憲実に対し、保護下にある持氏を自害させるように迫った。これを受けて憲実は、使僧を京に派遣して持氏の助命を願い出たが、義教はこれを赦さない。しかも持氏を誅伐しなければ憲実も罪に問う、という強硬姿勢だった。
 やむなく憲実は上杉持朝・千葉胤直らに軍勢をつけて持氏のいる鎌倉の永安寺を攻めさせた。永享11年2月10日、持氏・叔父の稲村御所(陸奥国岩瀬郡稲村;現福島県須賀川市)足利満貞は寺に火を放って近臣30数名と共に自害して果てた。基氏以来、鎌倉府の90年来の幕は下りた。また、持氏の嫡子義久も2月28日報国寺にて自害した。
 持氏の遺児春王丸、安王丸・永寿王丸は、遺臣によって救出されている。春王丸、安王丸は下野国日光山の山中に匿われた。永寿王丸は信濃国岩村田の大井持光に庇護された。春王丸、安王丸は、追捕が厳しくなり、永享12(1440)年3月、結城氏朝を頼った。結城氏は満広の代から管領家上杉と対立し、その養子結城氏朝は永享の乱では、父鎌倉公方持氏方であったため頼られた。世は「万人恐怖」とまで称される将軍義教の専制政治の全盛期で、氏朝の心中は複雑であったが、春王丸、安王丸を結城城に迎える決断した。関東諸家の小山広朝・宇都宮・那須・岩松氏など旧持氏方を糾合して結城城に立て籠もった。

10)結城合戦と信濃武士
 大井持光は、「永享の乱」後の永享11(1439)年、自害した鎌倉公方足利持氏の遺児永寿王丸・後の古河公方足利成氏(しげうじ)を信濃で庇護した。永寿王丸は持氏の末子で、当時5才であった。初代鎌倉公方足利基氏が中興開基した鎌倉の瑞泉寺の僧が、2人の被官に庇護され乳母に抱かれる永寿王丸を、岩村田に隣接する安原(佐久市)の安養寺に連れ逃れてきた。この寺が信州味噌発祥の地と謂われている。安養寺の住僧が、乳母の兄で、その伝手(つて)を頼って逃れ、大井持光の庇護を期待したようだ。

  永享の乱後、上杉氏は勝利に驕り、強引な所領の拡大を図り、圧迫された在地豪族の反発が、後の関東大乱の遠因となった。永享12(1440)年3月、幕府と関東管領上杉氏に反発する諸豪族が持氏遺児の春王丸・安王丸を奉じて、下総の結城城(茨城県結城市結城)に立て籠もる。幕府は急遽、これを越後守護上杉房方の子で、越後の上条城主上杉清方や小笠原政康に鎮圧を命じた。結城合戦の始まりである。

 『鎌倉大草紙』は全3巻で構成され、著者・成立年代とも未詳あるが、戦国期から近世初頭まで、康暦元(1379)年より文明11(1479)年までの百年間を越える関東の政治動向を各年毎に記したものである。それには「大井持光が家臣芦田・清野をつけ」永寿王丸を送ったと記している。持光は6歳の永寿王丸を結城城へ送り籠城させた。
 38年後の文明10(1478)年の「御符礼之古書」に「右頭、岩村田大井政朝代初、御符礼三百貫三百文(中略)、寄子葦田(芦田)・根々井・塚原」とあり、芦田氏が独立した郷を領有できぬまま、大井氏の寄子(配下)になっていた事が知られる。
 芦田氏は『庶軒目録』の文明16年10月23日の条に「大井氏は千騎を以て大将たり。今19才。(中略)大井の執事足田(芦田)殿・相木殿(下略)」とあり、大井氏の主人に近侍し家政に当たっていた。
 永享12年7月、幕府軍による結城城への攻撃が激しくなると、持光は結城方に味方するため上信国境の臼井(碓氷)峠まで出陣した。上杉憲実の弟重方が上野の国分(こくぶ;群馬県群馬町)まで出馬し牽制すると、軍を引いている。
 永享8年3月、将軍義教は小笠原政康に芦田征伐を命じた。その際、幕府政康軍の全面的支援により、大井持光は芦田氏を攻め、芦田氏をその傘下に加えた。その持光が、なぜ反幕府軍に加わったのか?故足利持氏との親密な関係が想定される。『持光』は『持氏』の偏諱を下賜されたのか?
 結城氏朝は小山泰朝(おやまやすとも)の子で、下総結城満広(みつひろ)の養子となった。応永23(1416)年ごろ家督を継承した。下野守護職であった祖父結城基光が死去した永享2年(1430)以降、結城家当主としての活動を開始した。前代から敵対していた上杉氏との対立が激化したため、永享の乱に際し、足利持氏を支援した。持氏の遺児安王丸、春王丸が挙兵すると、これを結城城に迎え、関東諸家の宇都宮、小山氏の一族や那須、岩松氏らを糾合して関東管領上杉清方が統帥する幕府軍と抗戦した。
 小笠原政康は、再び信濃守護として国人に軍勢催促状を出し出陣を強いた。その様子が結城合戦に参陣した武士の記録『結城陣番帳』に記されている。
 「(上略)従公方様(義教) 陣中奉行儀、小笠原大膳大夫被仰付、任上意之旨、国国諸侍関東在陣之間、小笠原大膳大夫可任下知之由、被仰出候者也(下略)」とあり、信濃武士の多くを参陣させ、政康は陣中奉行として諸国の諸士を指揮した。
 信濃の国人衆は政康の指揮下、幕府軍の陣中警護と矢倉の番として、30番組に編成され1昼夜毎の勤番に就いた。壱番が小笠原五郎(宗康)殿、2番が高梨殿、3番が須田殿、4番が井上殿、8番に村上殿代屋代殿、10番が海野殿、11番が藤沢殿、牧城主10代目の香坂徳本は、12番組であった。14番に諏訪信濃守殿、大原(草)殿代、中沢殿代、甲斐沼殿代の名が並ぶ。16番に諏訪兵部大輔殿、知久殿、伴野殿、今田殿の名がみられる。27番では大井三河守殿同名河内守殿同名対馬守殿、祢津遠江守殿、生田殿、関屋殿で一番を組んでいる。30番まで109名の武将の名が記され、信濃勢3千余騎とある。大井持光と依田一族は不参加であったが、当時の信濃武士の殆どの名が連ねられている。佐久武士の参加者は27番の3氏のみで、大井一門であっても守護小笠原に属した。他の佐久勢がみられないのは、大井持光の勢威に屈していたからで、当時の実力の程が測られる。
 結城氏朝は、翌嘉吉元(1441)年4月16日敗れ、嫡男の持朝(もちとも)らと共に自決し落城した。安王丸、春王丸の兄弟は捕らえられ、京都への護送途上、美濃の垂井(岐阜県不破郡垂井町)の金蓮寺で殺害された。政康は結城城を陥落させ、安王丸、春王丸を捕らえる抜群の武功を挙げた。将軍義教から感状を与えられ、太刀一腰(ひとこし)が下賜された。この合戦での奮戦により、政康の兄長将が戦死し、子の宗康が負傷している。政康は将軍義教の命に従い諸所で軍功を立て、小笠原氏の旧領を回復してきた。
 『喜連川判鑑』『上杉略譜』『足利系図』『永享後記』『足利治乱記』『永享記』など、いずれも永寿王丸は密かに逃れ大井持光に庇護されているとしている。当時、武蔵や上野国にも所領があった持光の懸命な救助活動が功を奏したようだ。『結城戦場物語』には「そののち持氏の末の御子、信濃国安養寺と申す寺に深くしのびてましますを、東国の諸侍たづねだして奉り、成氏と申して鎌倉に御所をたて、京都・田舎(鎌倉)和談して末はんじゃうとさかえり」と記す。『上杉略譜』には、「永寿王は信濃大井持光の家にかくまわれていたが、これを知る者がなく、幕府軍の総大将上杉清方も鎌倉に帰り、諸国の軍もみな帰国した」と記す。
 結城合戦から僅か2か月後、嘉吉元(1441)年6月24日、将軍義教は「結城合戦平定の祝賀」として招かれた赤松亭の祝宴の席で、首級を挙げられる無残な死を遂げた。
 小笠原政康も翌嘉吉2(1442)年8月9日、結城合戦後の事後処理を完了し、信濃の館に戻る途上、小県郡海野で病没した。享年67であった。

11)小笠原氏の内紛嘉吉の内訌
 政康は小笠原氏の全盛期を築いたが、死後間もなく内紛が生じ、伊那小笠原と府中小笠原が対立する。政康の嫡子宗康を推す一揆と、政康の兄長将の嫡子持長を推す一揆が対立する。小笠原氏の内紛の源は政康の父長基に始まる。長基には長幼順に長将・長秀・政康の3人の子がいた。長基は惣領職の譲状を若い17才の長秀に与えた。実兄長将より長秀の器量が勝っていたからと思われる。長基の所領の配分は、長秀が12か所、兄長将が2か所、弟政康が3か所、比丘尼浄契1期分2か所の計19か所であった。但し書きに兄長将と弟政康に子が無ければ、両人没後は長秀が相続する。長秀に子が無ければ、政康が譲り受けるとした。
 長秀は大塔合戦に敗れ、子もなかったため、39才の時、実弟政康に「所々朝恩之本領、恩賞之地等事」と一括譲与する譲状を渡した。但し、長秀に実子ができた場合は無効とし、さらに弟政康に実子ができない場合を想定し
 「任亡父清順(長基)之置文旨、政康可令(申せられる)相続一跡、次政康以後無実子者、自政康手、舎兄播磨守長将之嫡男可譲与彦次郎者也」と、兄長将の子彦次郎、この時9才の持長に譲与されるとした。持長は当時父長将と共に、その所領地塩尻郷にいた。
 政康の死後、小笠原一族の惣領職をめぐって嫡子宗康と、京都にあって将軍家の奉公衆を勤める持長との間で相続争いが起きた。これを「嘉吉の内訌」といい、小笠原氏凋落の始まりとしてよく知られている。持長は、結城合戦にも将軍の命を受けて出兵し父長将戦死の痛手を受けていた。しかも将軍義教を殺害した赤松満祐の討伐にも軍功をあらわした。管領畠山持国と外戚関係にあり、実力と政治的背景をもった持長だけに相続争いに頭角をあらわした。
 『小笠原文書』に政透の花押がある政康の置文が遺る。
  「こんといからへこへ候事、目出度候、諸事についていからの事は六郎(光康)にまかせ候、あいはからい候へく候、さうちて、当家の事は五郎(宗康)・六郎両人ならてはあいはからい候ましく候」とある。伊賀良は弟の六郎光康が相続し、兄五郎宗康は安曇・筑摩を伝領する意味と解される。
 嘉吉2年8月政康が没すると、持長は所領相続の権利を主張し幕府に出訴し裁断を仰いだ。
 文安2(1445)年11月24日の幕府奉行人連署意見状は「長秀譲与持長之由、雖申、不出帯証状、宗康又譲得之旨雖申、同無譲状」事を前提に、政康が宗康・光康に宛てた書状から、総じて当家の事は五郎(宗康)・六郎(光康)の相計らいに任すとあり、「宗康可領掌之条勿論」と、結局、信濃守護職は在国していた宗康に安堵された。しかし、信濃は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、国人衆も2派に分裂して対立抗争が続いた。
 小笠原一族の赤沢満経が水内郡栗田朝日山(善光寺西方2k;川中島から北方犀川を越え安茂里の北隣り)に城を築き、持長を迎え入れた。宗康は母方の春日伊予守盛定を頼った。文安3(1446)年、宗康は弟の光康に支援を頼み、万が一の場合は光康に惣領職を譲り渡すことを約束して持長方との決戦に臨んだ。
 足利将軍義教は前年嘉吉の乱で赤松満祐の家臣に首級をあげられている。幕府管領細川持之は、義教の嫡子9才の義勝を7代将軍にすえ、赤松満祐一族を討伐し嘉吉の乱が終結すると出家引退した。かつて持長は京都にあって将軍家の奉公衆の一員であり、持之後任の幕府管領畠山持国とは外戚関係にあった。元々信濃小笠原家は京都小笠原家が出身母体である。一族と、その有力家臣団は、京幕府の重鎮を権威とし、その出生も五畿周辺とみられる。持長が小笠原氏後継を主張する事自体に無理があり、当然幕府の裁許に敗れた。その後も強硬に出られたのも、畠山持国との縁戚関係があったためとみられる。しかし持国や幕府には、最早、諸国守護大名の内紛を統御する実力が失われていた。

 遂に、文安3(1446)年3月、善光寺表の漆田原で小笠原両軍と激突となり、数に優る宗康が当初優勢であったが、この戦闘で宗康は重傷を負った。宗康は回復は無理とさとり、同月11日付けの書状を伊賀良の弟光康に送り、惣領職と所領の一切を子国松(正秀・政貞)に譲るべきであるが、幼少のため成人するまで光康に預けると伝えた。
 持長は宗康を敗走させたといえ、家督の実権は光康に譲られているため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に安堵した。しかし、信濃国から持長の勢力が消え去ったわけではなく、以後も、持長と光康の二頭支配が続き、両派の対立は深刻の度合いは強めていった。

 室町時代の外記局官人を勤めた中原康富の日記『康富記(やすとみき)』に、将軍義勝は、嘉吉3(1443)年6月19日、義教の弔意を伝えるために来日した朝鮮通信使と会見、その年7月21日に死去、在任わずか8ヶ月、享年10であった。赤痢による病死が有力視されている。後任の将軍には同母弟で8歳の義政が選出された。義勝・義政と幼少の将軍が2代続き、その間、朝廷や有力守護大名の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らいだ。常に幕府権力を背景に復活した小笠原氏も低迷し、政康の死後、下剋上の風潮に晒され、伊那と府中に割れ同族相争う過程で、全信濃的勢力から局地的勢力へと転落した。
 文安3(1446)年、善光寺表の漆田原合戦(現長野市後町;長野県庁の東隣)で持長は宗康を敗走させたが、家督相続争いは泥沼化した。宗康の子国松は光康に擁され伊那郡伊賀良を領有し、政貞・政秀と名乗り鈴岡に在住した。鈴岡城は竜丘駄科(だしな)地区の毛賀沢川と伊賀良川に挟まれた川岸段丘の突端部にあり、室町時代、松尾城の小笠原貞宗の2男宗政が築いた。標高490m、北は毛賀沢川の侵食による深さ約60mの谷を隔てて松尾城址と相対していた。光康はその松尾城を拠点とした。結果、前者が鈴岡小笠原、後者光康が松尾小笠原を称した。善光寺平で戦勝した持長は、筑摩郡林城を拠点とし、井河に館を構えた。ここに小笠原は3家に分流した

 宝徳元(1449)年9月細川勝元が管領職を辞した。勝元は、名門意識と強大な権力を背負って、細川惣領家に永亨2年(1430)、持之の子として生まれた。幼名は聡明丸で13歳のとき父・持之の死で家督を相続し、わずか16歳で管領に任命された。以後、死ぬまでに勝元は、通算20年以上も管領の座にあった。


 北信への進出拠点舟山郷も『諏訪御符礼之古書』から、漆田原合戦の3年後の宝徳元年には海野持幸が、その12年後の寛正2(1461)年には屋代信仲が、それぞれ御射山の頭役を割り当てられている事から、小笠原氏はその所領を失っている事が知られる。
 車山高原リゾートイン・レア・メモリー諏訪の歴史散歩

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