八島遺跡群  Top
目次 
 1)世界の旧石器時代
 2)日本の旧石器時代
 3)氷河期の日本人の足跡を、旧石器遺跡で探しました。
 4)氷河時代の日本
 5)氷河期代の八島湿原

y1)世界の旧石器時代
 旧石器時代研究はヨーロッパが発祥で、その時代を前期・中期・後期と区分しました。その後期旧石器時代が4万年前から1万3千年前とされています。
 20世紀後半に、最初の石器製作は東アフリカを始原とすることが明らかになりました。ケニアのコービ・フォラ遺跡やエチオピアのウエスト・ゴナ遺跡の石器は約260万年前に遡ります。
 南アフリカ・スオートクランスの崩壊洞窟から多数の焼けた骨が出土しました。ケニア・バリンゴ湖近くのチェソワンジャでは人類最古の炉跡が発見されました。150万年から100万年前に遡る人類が火を使った痕跡でした。
 イアン・タッターソルは60万年前、中央ヨーロッパの氷河時代初期の比較的温暖な気候時代のヨーロッパ人とされるハイデルベルグ人骨に、喉頭(こうとう)の下降を間接的に示す頭骨(とうこつ)底の屈曲が認められ、咽頭が長く伸び複雑な調音が可能となり、分節化した音声を発する声道を備えていたと主張しています。
 ネアンデルタール人世界には死者を埋葬する風習が確実に広がり、精神面の発展も著しく、イラクの約8万年~6万年前のシャニダール洞窟Ⅳ号人骨は岩石に囲われ、遺体には花が添えられていた痕跡を留めています。北海道上磯郡知内町重内の湯の里4遺跡では、人骨は遺存していませんが、後期旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土壙が発見され、琥珀や石製の小玉・垂飾などが出土しています。
 現生人類の出現は、後期旧石器時代を飛躍的に発展させました。その兆しは既に、南アフリカ・ブロンボス洞窟から約7万5千年前の骨器で幾何学的な文様が掘られたオーカー(赤鉄鉱)や、巻き貝を集め、孔を穿つビーズ飾りなどが出土して明らかになりました。ドイツ南西部のシュヴァーベン地方の諸洞窟では、3万5千年前頃の半人半獣のライオンマン・マンやマモス牙製の動物彫像と、なんと笛が発掘されました。
 フランス最古期の洞窟壁画は南部アルデシュ県の3万2千から3万年前のショーヴェ洞窟の壁絵です。その総数は3千個を超え、分かっているだけで260の動物画があり、描かれている動物は13種類あり、その中にはフクロウやハイエナや豹など、これまでの氷河時代の壁画には殆ど見られない動物までも知見できました。単なる装飾的遊戯ではなく、シャーマニズム的な宗教的祭祀文化が既に形成されていたようです。

2)日本の旧石器時代
 後期旧石器時代初頭から、日本列島には人類が常に住み続けてきました。気候的には最終氷期で最も寒冷で乾燥した不安定な大陸性気候であったと言われています。今日の乾燥したロシア極東の気候風土のように、北方系の針葉樹林が列島を広く覆う植生環境でありました。ただ寒冷ではあるが安定した気候であったため、意外に居住を容易にしたと考えられています。
 日本の旧石器文化の始原は、岩手県金取(かねどり)遺跡・長野県野尻湖立が鼻(たてがはな)遺跡・同県竹佐中原遺跡・長崎県福井洞窟その他の出土資料で、現時点では9万年前に遡る年代に漸く近づきつつあります。
 後期旧石器文化の4万年前頃に、砕くだけでガラスのように鋭利になる黒曜石が、人類に多大な恩恵を与えました。その打製石器は時の経過につれ技術的が向上し、ただ単に、石を砕き割っただけの礫器(れっき)から、薄く鋭利で用途も多岐な剥片(はくへん)石器を加工しました。
 剥片石器・加工した石の中央部を利用した石斧(せきふ)などの石核(せっかく)石器へ進化し、磨製石器へと自ずとつながります。石斧は樹木の伐採と加工、さらに動物の解体などと型式は細別されていきました。

 氷河期のいつ頃から日本に人類が住み始めたのでしょうか?
 日本の更新世(170万年~1万年前)は、火山活動が活発な時期です。関東ローム層に代表される火山灰層を堆積させて、強度の酸性土壌を形成しました。更新世末期、氷河期が終結し暖流が流れる日本海ができ、日本列島が形成されると、多雨となり石器は保存されますが、人骨・ 骨器・木器・鉄器などは、全て腐食して残りません。一方、高燥台地八島高原から次第に八島湿原が形成されていきます。
 日本列島の旧石器文化は、主に3万5千年前から1万8千年前を中心に置くナイフ形石器文化が大部分を占めています。この石器は形状から便宜的に命名されましたが、用途としては槍の穂先とみる説が有力です。石刃を素材にしたユーラシア大陸の後期旧石器時代石器群と共通性があると言われる一方、日本列島の石刃石器文化がナイフ形石器のみが主体となっている傾向から、ヨーロッパやシベリアと同質とはいえないといわれています。

 昭和58(1983)年に行われた群馬県伊勢崎市下触牛伏遺跡(しもふれうしぶせ)の発掘調査によって、直径50mにも及ぶ巨大な円形のムラの跡、「環状石器ブロック群」が初めて明らかになりました。出土した石器の調査から数十mも離れて発見された石器同士が接合することが判り、遺跡が同時期に造られたことも証明されました。今から約3万5千年前から2万8千年前ころの、それまで類のない規格的で巨大な旧石器文化の遺構でした。
 長野県日向林(ひなたばやし)B遺跡、千葉県池花南(いけはなみなみ)遺跡などでもあいついで発掘されました。多数の石器ブロックが最大径80mに及ぶ規模で環状にならんでいる、やがてナイフ形石器文化前半期の特徴として、大形環状ブロック群の形成があげられるようになりました。集落跡の可能性が高まりました。この集落の多くは磨製石斧を伴っています。同時期の落し穴遺構と密接な関係が想定されるようになりました。
 また長野県の霧ヶ峰ジャコッパラ・茅野市城ノ平、静岡県の箱根と愛鷹山麓などの落し穴遺構の発見は、旧石器文化時代の狩猟活動の一端が明らかになりました。環状石器ブロック内に居住する数家族が一集団となって、ナイフ形石器を槍の穂先に装着し動物を落とし穴に追い込む「集団による追い込み狩猟」です。下触牛伏遺跡の発掘などにより、大きな環状石器ブロック群内で同時に100人を超える多くの人々が生活を共にしているムラ社会が形成され、その目的が ナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型動物の「集団による追い込み狩猟」にあったことが分かりました。
 後期旧石器時代に通有の生活址を遥かに超えるスケール、今から約3万5千年前から2万8千年前ころの大規模な環状集落は、シベリア系マンモスや中国北部系ナウマンゾウ・オオツノシカ等の大型獣を捕獲する落とし穴追い込み猟と、外敵熊・狼、備蓄する捕獲物をあさる狸などに対する備えだったのでしょうか?
 環状石器ブロック群・磨製石斧・落し穴遺構は、ユーラシア・アフリカ大陸の旧石器時代には、殆ど類例を見ません。ナイフ形石器文化も日本列島を始原として発達した文化で、薩南諸島の奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡や火山灰層から3万1千年前であることが明らかな種子島の立切(たちきり)遺跡から、未だナイフ形石器は発掘されていませんが、磨製石斧が出土していますから文化的広がりが予見されています。

 沖縄では、アルカリ性の石灰岩地帯が多いので人骨が出土しています。沖縄県那覇市山下町第一洞穴で、後期更新世(12万6千年~1万年前)の時代の人骨が出土しました。国場川に面する石灰岩丘陵の中腹で、昭和37(1962)年、昭和43(1968)年に発掘調査が行われました。
 この遺跡からは、鹿の骨や角の化石とともに8歳程度の女児と推定される人骨の一部が出土しました。今からおよそ3万2千年前、旧石器時代の 国内では最古級の人骨でした。 この人骨発見により、日本列島に後期更新世後半の人類の存在が明らかにされました。東アジア間の 人類の移動または進化を探る、最も重要な資料とされています。
 3万5千年前からつづいていたナイフ形石器にかわり、北海道や東日本で細石刃(さいせきじん)と呼ばれる細長い石器がつくられるようになりました。細石刃は尖頭器の替え刃であったようです。木や骨に溝をほり、そこに黒曜石などで作った小さく鋭い石刃を一列にさしこむ大きな刃をもつ鎌(かま)、投げ槍突き槍の穂先の替え刃としたようです。このような高度な替え刃式の組み合わせ道具の登場は、石器文化が円熟期を迎えたこと示します。とくに北海道で、シベリアからの影響をうけて成立した細石刃剥離技術の一つ湧別技法(ゆうべつぎほう)のほか、次第に独自の多様な細石刃製作技法が考案されていきます。細石刃文化は、1万8千年前ごろからシベリアからサハリン・北海道を経由し、その過程で独自の製法が積み重ねられ本州各地に広がっていっきました。

3)氷河期の日本人の足跡を、旧石器遺跡で探しました。

 長野県は日本列島の地質構造を大きく区分するフォッサマグマ地帯の中央にあり、本州を構築する脊梁(せきりょう)地帯を中断する、南は諏訪湖を源流とする天竜川から静岡県浜松へ、八ヶ岳の南麓をながれる釜無川が富士川となり富士市と静岡市清水区との境で太平洋へ、北には車山連峰と八ヶ岳などを源流とする千曲川・信濃川と青木湖を源流にする姫川・糸魚川が内陸盆地を連ね日本海に流れ下ります。  
 美ヶ原から特に三峰山・鷲ヶ峰・車山・八子ヶ峰等の車山連峰は、本州の中心であり代表的な分水嶺であります。北では北陸・東北地方、東は関東地方、西は近畿地方、南は東海地方へと八島湿原周辺の黒曜石文化が伝播されました。無限ともいえる黒曜石を中心とした採掘・加工・流通が、遺跡の発掘実績の限界5万年前の前後から開始されていました。車山連峰など標高千5百を超える高冷地に黒曜石が露頭していました。特に八島湿原周辺に広がる長和町和田峠、東餅屋、男女倉、鷹山星糞峠、下諏訪町星ヶ塔・星ヶ台、東俣などが信州系黒曜石の大規模な原産地です。車山南麓のおよそ3万8千年前から2万8千年前頃と推定されている池のくるみ及びジャコッパラなどの黒曜石遺跡からは、ナイフ形石器文化初期を代表する台形状のナイフ形石器や局部磨製石斧が出土しています。
 八ヶ岳の茅野市冷山(つめたやま)、佐久穂町麦草峠大石川上流双子池などと、浅間山南東麓の軽井沢町長倉の大窪沢などが黒曜石の原産地として知られています。
 日本国内では、約5千を優に超える旧石器時代の遺跡が、確認されています。 特に旧石器時代の石器群が濃密なのが長野県の「野尻湖遺跡群」です。立が鼻湖底遺跡も含めて、野尻湖の西岸からその南側の丘陵地帯は、遺跡密度が非常に高い地域で、旧石器時代から縄文時代草創期までの遺跡が集中しています。 現在までに明らかにされている遺跡は39ヵ所もあり、これらを一括して「野尻湖遺跡群」と呼んでいます。ナウマンゾウ狩りで知られている野尻湖底の立が鼻遺跡は、現時点で、約5万4千~3万8千年前の日本の一番古い旧石器文化の存在を証明しています。 また「野尻湖遺跡群」は、縄文時代草創期までの遺跡が、ほほ途切れることなく続き揃っています。つまり最終氷期の、なかでも約5万4千年前以降の人類の歩みがほぼ連続して記録されている重要な遺跡群です。骨製クリーヴァー(ナタ)・骨製スクレイパー(皮剥ぐ)・骨製尖頭器・骨製ナイフ・骨製槍の穂先等の骨器、安山岩製の微細剥離痕のある剥片・ナイフ形石器・石核などの骨器・石器が、ナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型動物化石を伴い出土されています。その出土した骨の接合状況、産出する哺乳類化石の殆どがナウマンゾウであった事から、ナウマンゾウの狩猟解体場遺跡とみられています。現在、「野尻湖遺跡群」に先行する石器群は、飯田市にある竹佐中原遺跡(たけさなかはらいせき)と石子原遺跡(いしこばらいせき)があります。
 「野尻湖遺跡群」の年代約3万8千から3万2千年前までの信濃町貫ノ木遺跡・日向林(ひなたばやし)遺跡・上ノ原遺跡・大久保南遺跡などでは、環状ブロック群を伴う大規模遺跡が多く発掘されています。諏訪市霧ヶ峰のジャコッパラ遺跡も同時期です。
 信州の山深い地に、なぜ、これほどの人々が集まってきたのでしょうか。
 「野尻湖遺跡群」のその秘密は、氷河時代には多くの湖沼が野尻湖のまわりに点在していたことにあります。これらの湖沼は、黒姫山のはげしい火山活動に関連して、生じたものでした。大量のマグマの噴出は、その大地を陥没させ、そこに周囲の山岳地帯に降り注ぐ雨水が流れ込み、水辺を生みます。ナウマンゾウやヤベオオツノシカなどの大型の草食獣は、氷河期の乾燥した寒冷期、水浴びをしたり草食するための水辺に集中したのです。旧石器時代の人類は、動物を追って移動していた狩人で、格好の狩猟の場となった野尻湖やまわりの湖沼に集まって来ました。
 野尻湖の立が鼻遺跡では、約5万4千~3万8千年前までの地層中から、ナウマンゾウやヤベオオツノシカなどの化石と一緒に、それらの動物を解体したとみられる骨器や石器などが出土しています。その研究から、この時代の旧石器人類が、ナウマンゾウなどの大型獣を狩猟し、そこで大量に解体して生活していた事が明らかになりました。
 このような大型獣を解体した跡を残している遺跡は、旧石器時代では、世界的にも僅かな例しかありません。それで、立が鼻遺跡に代表される文化を、特に野尻湖文化と名付けてられました。また野尻湖文化の時代は、旧人から新人への移行期にあたります。野尻湖文化の担い手は、旧人か新人か?あるいは同時代に生存し、その関わり合いはどうであったのか?野尻湖文化の研究は、この移行期の解明の観点からも注目されているわけです。
 立が鼻遺跡からは、石器・骨器・木質遺物などが出土しています。石器の多くは、質の良くない粗粒な安山岩で、幅広で寸詰まりです。骨器の出土は、数が少ないのですが、すべてナウマンゾウの骨を加工して作られています。骨の剥片に大・中・小といった程度の違う剥離をほどこし、何度も加工して丁寧に作られています。骨器の加工には、石器も使われたのでしょうが、ナウマンゾウを解体し、その皮を剥いだり、肉を切ったりする重要な道具の多くは、骨器が中心で、ナウマンゾウの骨で作った骨器を、主要な道具として使っていたとみられています。
 打製骨器ばかりで磨製骨器といたものはなく、大きな骨を打ち割って、骨の剥片をつくり、さらにそれを、たたき石で打って剥離し、細かい仕上げ加工をする方法だったでしょう。石器にも刃の部分を研いだものはありません。骨器も石器も、つくり方としては非常に古いタイプの物です。

4)氷河時代の日本
 長い「氷河時代」が重要なのは、人類の進化に影響しているからです。大規模な氷期がやってくる以前の日本の気候は温暖で、栗・胡桃(くるみ)・栃(とち)・アケビなどの落葉広葉樹林におおわれて、採集食糧に恵まれていました。
 一度、氷期が訪れると海岸線が極端に遠退き、陸上の大部分が氷に覆われます。そのため動植物が激減しますから、動植物を食料とする狩猟採集生活の人類にとっては、大きな打撃となります。人類になる前(猿人)は、樹上生活でしたが、氷期の環境で木の実が激減して、昆虫などの食料を求めての地上の移動生活をよぎなくされ、足歩行を開始して人類となった というのが通説です。
 直立歩行、道具と火の使用を特徴とする人類は、数百万年前に、サルから分岐して、足歩行により、人類は過ごしやすさと食料を求めて、移動しながらの採集狩猟生活をするようになりました。気候が寒冷化し乾燥化すれば、人々は食物を求めて大挙移動を始めます。更新世前期(170万年前~70万年前)に3回の氷期が到来しましたが、原人たちは温暖な気候・適地を求めて、地球全体へ広がっていきました。その間に全滅した集団も多く、環境の変化に適応した者のみが、原人から旧人へ、旧人から新人へと人類は代っていきました。
 日本列島への人々の移住も、大陸との往来が可能になり、気候変動を主因とする数次にわたる民族移動の結果でした。動物・植物の移動もありました。長野県の野尻湖湖底で発見される、ナウマンゾウ・オオツノシカ・寒冷地植物種子からも確認されます。今から2万年前頃、ヴュルム氷河期(第四紀氷河時代の最後の氷期;第4氷期、5万3千年から1万年前、旧石器時代の最後期) の最終氷期の最寒冷期にあたります。年平均気温も現在より7~8度低い、海水面は地球状の水分の凍結により120mほど低下しました。地球の寒冷化によって氷が溶けず、海水の量が減少したためです。その結果海底の一部は、海上に姿を現し陸地化しました。
  ヴュルム氷期には海面が最大で、140m も低下したと言われています。そのため、日本は朝鮮半島やサハリンと陸続きになって多くの動植物が日本にやってきました。現在のベーリング海峡もヴュルム氷期には陸地化して、アジア大陸と北米大陸が陸続きになっていました(ベーリング陸橋)。日本海は狭くやがて海でなくなり、朝鮮海峡や津軽海峡は陸地化し、「陸橋」が列島と大陸を結んでいました。その数万年間の単位で、断続的に大陸と「陸橋」と「氷橋」を経由して繋がり、人類と動植物の移動が生じます。最寒冷期の2万年前頃の日本列島は、寒冷で乾燥した大陸型の気候でした。閉ざされた狭い日本海に、対馬海流の暖流は流れず水蒸気は乏しく、日本海側の冬の降雪量が少なかったのです。

5)氷河期代の八島湿原
   「丘陵地の畑道を歩きつづけているうちに、山と山のすそが迫っている間のせまい切り通しにさしかかった。両側が2メートルほどの崖となり赤土の肌があらわれていた。そのなかばくずれかかった崖の断面に、ふと私は吸いよせられた。そこに小さな石片が顔をだしているのに気づいたからであった。私は手をのばして、荒れた赤土の地はだから、石片をひろいあげてみた。」(相沢忠洋『岩宿の発見』より)
 稲荷山の赤土の崖でついに完形の槍先形尖頭器(せんとうき)を発見した。相沢忠洋のこの発見が、その後、続々と続く日本の先土器文化遺跡の発掘の契機となりました。
 ところで、車山から霧ヶ峰とビーナスラインを走っていくと、その次が八島ヶ原湿原ですが、昭和27(1952)年にビーナスライン・観光道路開削工事をする際に松沢亜生(つぎお)が調査を行ない、多量の黒曜石の石器と遺物が露出しているのを発見し、はるか3万年を越える以前からの 先土器時代の遺跡が確認されました。「八島遺跡群」発掘の発端です。現在、10数箇所で先土器時代遺跡が発見されています。全体を総称して「八島遺跡群」といいます。さらに多くの旧石器時代の遺跡が埋もれていると考えられますが、遺跡全体の調査が不十分で、未発見の遺跡も多いので、遺跡分布状態は定かでありません。
 昭和30(1955)年に、当時大学生だった戸沢充則(元明治大学学長)・松沢らが調査をしました。 発掘の面積は3×1.5mのピットを4カ所掘ったにすぎなかったが、それにもかかわらず5,000点以上の石器が出土しました。そのことから、遺跡全体に埋蔵されている石器は、きわめて大量であろうと考えらました。出土した石器は、尖頭器(せんとうき)・ナイフ形石器・掻器(そうき)・石刃(せきじん)・彫器などの器種が主で、特に尖頭器の分析が戸沢教授によって行なわれ、尖頭器研究に画期的示唆を与えられました。戸沢教授は調査報告書で「大小の黒曜石片がほとんど敷き詰められるほどに濃い包含状態を示していた」と・・・黒曜石原産地に近く、その豊富な材料の中、石器作りに勤しんでいたといえます。
 黒曜石は、火山の噴火の際の噴出物や溶岩が急激に冷やされて出来ます。 天然ガラスのような黒曜石は、打ち欠きが容易で、割ればナイフのような鋭い割れ口ができることから、人類史の初期の段階から、石器の材料として重用されてきました。時には、金属のナイフより役に立つことがあるらしく、古代エジプトのミイラつくりには鋭く研いだエチオピア石(黒曜石)は欠かせなかったことが伝えられています。
 北海道では黒曜石を「十勝石」とよんでいます。北海道の黒曜石四大産地、白滝、十勝、置戸、赤井川の黒曜石の呼び名は、すべて「十勝石」です。特に北海道の東部、紋別郡白滝村にある赤石山(標高1,147m)は、黒曜石の産出量、質の良さともに世界有数の産出地です。白滝の黒曜石原産地の周辺と湧別川(ゆべつがわ)流域には、大規模な遺跡が集中して分布しています。白滝産黒曜石は、石材の採掘・搬出・製作と分業化され、全道各地の拠点的中継地に運ばれ、南は東北地方まで、北は宗谷海峡を越えてサハリン、大陸のアムール河流域の遺跡にまで、流通していることが知られています。
 本州最大の黒曜石の原産地・和田峠周辺地域と北海道の大産地以外にも、 本州から九州の各地に中小の産地があります。関東には箱根・伊豆諸島などの産地があります。一般に黒曜石と呼ばれても、それぞれ溶岩成分に違いがあります。その化学的分析で産地の特定が出来ます。それで、和田峠周辺地域の黒曜石が、3万年前から関東地方で既に使われていて、1万5千年前になると中部地方の長良川・木曽川流域にまで及んでいることが判明しています。発掘が進めば、今後、さらに時代を遡り、使用領域の拡大が想定されます。このことから、道自体の整備が全くない旧石器時代に、石材の採掘・搬出・製作と流通の組織的な生業があったと考えられます。
   「八島遺跡群」では、今から3万年前頃から、定形的石器としてナイフ形石器が主となる時期が続きます。およそ1万5千年頃になって、新たに尖頭器という石器が加わります。八島遺跡には粗い作りの尖頭器が多く見られます。尖頭器とは、広義では先がとがって、ものを突き刺す役割を果たしたと思われる道具をいい、その形状から骨角器にも、この用語を用いています。狭義では、先の尖った石器、もしくはこれに類似した形の石器をさします。日本では、先土器時代のものを「尖頭器」と呼び、縄文時代のものを「石槍」と呼んだりしましたが、近年では時代を超えて「尖頭器」が、広く用いられるようになってきています。
 八島遺跡の尖頭器は、この石器の作り始めの時代のものと考えられます。「八島遺跡群」の形成は、近くに本州最大の黒曜石の原産地・和田峠周辺地域に近いことに関連しています。和田峠・和田山・東餅屋 (ひがしもちや)・男女倉(おめぐら)・鷹山、そして和田峠周辺地一番の原産地「星ケ塔」「星ケ台」と呼ばれる山の存在です。旧石器時代人は、星糞遺跡のように直接鉱脈を採掘する一方、鉱脈から崩れ落ちた黒曜石を沢で拾い集めたと考えられています。
 「八島遺跡群」辺りは、その地域一帯の黒曜石の採取・加工場として、豊富な水場と食料原としての狩場のある一時的なキャンプ場として、最適だったようです。現在でも、雪知らずという名水場があります。ただ旧石器時代には、現代とは気候や植生にも大きな相違があって、高燥台地でした。八島湿原は氷河期が終わる1万2千2百年前から急速に形成されました。 ところが、「八島遺跡群」は、標高1,600mを超えています。その上、3万年前を越える人類の足跡です。霧ヶ峰のジャコッパラ12遺跡の年代は約3万8千から3万2千年前とされ、台形様石器・ナイフ形石器・ハンマーストーンが出土しています。ハンマーストーンとは、斧形石器製作で、ハンマーの機能を持つ石です。黒曜石原石を叩いて石核を作り、さらに剥片を剥がしたり、剥片の部分をさらに叩いて2次加工したりします。直接打撃法による石器製作です。鹿角などの軟らかい材質のハンマーもあり、獣皮を剥いだようです。
 そして、2万年前頃は ヴュルム氷河期の最寒冷期で、最も地球の気温が低下した時期です。宗谷海峡・間宮海峡等が樺太・シベリアと陸続きとなりました。雪線の高さが今よりおよそ120メートル低く、北海道の日高山脈や東北地方の高山、北アルプスには氷河があったと推定されています。これらの氷河の存在は、氷河の浸食作用によって形成されたと考えられるU字谷の頭部にカール(圏谷)があることなどで分かります。カールは氷河期に氷河によってえぐり取られ出来た大壁面をさします。カールは標高2,600m周辺に広がり、夏は高山植物の宝庫となります現在は北半球で、氷河が見られますが、これらは陸地の10%をおおっているに過ぎません。ところが今から1万年ほど前の最後の氷河期には全陸地の27%が氷河におおわれていたと言われています。
 八島湿原の生成は、今から1万2,200年前から始まったといわれています。その地層の花粉分析から
     現在~ 700年前    750年間 アカマツ期
     700~ 2,000年前  1,250年間 ミズナラ期
    2,000~ 3,000年前  1,000年間 トウヒ期
    3,000~ 7,500年前  4,500年間 ミズナラ期
   7,500~ 9,000年前  1,500年間 トウヒ期
    9,000~ 10,200年前  1,200年間 ミズナラ期
   10,200~ 12,200年前  2,000年間 トウヒ期
 八島湿原の地層の花粉分析によれば、大きく言えば気候の変動は、単純ではなく、氷河期でも、近代でも様々な様相を、時々に現出していた事が知られます。既に、氷河期の最寒冷期に当る1万2千2百年前以降にも、寒暖の変動が激しかったことが分かります。氷河期でも、長期のツンドラだけを想定するのは誤りで、トウヒ属の高木が茂る時期もあったのです。時には温帯性の落葉広葉樹ミズナラが繁茂していたかもしれません。
 短い夏の間に地面の表層が融解し、コケ類や地衣類が張り付く岩だらけの環境・凍土帯と亜高山帯針葉樹林特有の樅・トウヒ・コメツガに覆われた時期が繰り返されたようです。
 人類の起源ホモ・サピエンスが、比較的早期にアフリカからシベリア南部に分流していた事は、遺跡の発掘で証明されています。バイカル湖近くのマリタ遺跡ウスチ・コバー遺跡からは、後に縄文時代人の遺跡の中核となる竪穴式住居が発見されています。
 岩手県宮守村(遠野市)の金取遺跡は、昭和59(1984)年に発掘調査が行われ、年代の違う4つの地層から石器が出土しました。金取遺跡の最も古いとみられる地層では、石斧や剥片削器など石器9点が確認され、その出土した地層が、9万から8万年前に堆積した火山灰であることが日本考古学協会の調査で分かりました。18万年前にもシベリアと陸続きになり、シベリアの旧人がマンモスを追い石器を振り回しながら日本列島に達していたのです。
  思うに移動生活が基本の狩猟生活者・旧石器時代人は、高冷地でも比較的居住が可能な夏の一時だけ、当時、生活必需の工具原材料・黒曜石の採取を主に行っていたと考えられていましたが、旧石器時代の日本列島の人口は、推定で2万人程度です。2万人程度しか住めなかったこの時代に、高冷地で生きていく事が、どれほど困難であったのか推測されます。冬季の発掘・加工の生業は、雪深く不可能でしたが、43万年前の氷河期にも大陸と日本列島が地続きとなり中国北部系ナウマンゾウ・オオツノシカ動物群を追い中国の北部から移入した集団もあったようです。旧石器時代人は、想像以上に、居住内の暖の取り方、食料の保存に「雪に埋めておく」という方法など寒気に耐えられる生活工夫がなされていたかもしれません。
 氷期の更新世(約170万年前から約1万年前までの期間)の後期旧石器時代の日本列島は、寒暖が突然繰り返される非常に不安定な気候環境の時期もあり、まして高冷地であれば、八島湿原や霧ヶ峰周辺の植生帯から植物質食料の採集に相当困難を極めたとみられます。
 たとえば信州でも、豪雪地帯の飯山地方には、その雪を利用して保存するスノーキャロットがあります。秋に育ったニンジンを食さず、雪の下で約6ヶ月間越冬させて、雪解けを待って収穫すると独特の臭みがなく、ミネラル分の多い大変甘いニンジンになるのです。生産量も少なく、消費者にはあまり知られていない雪国飯山ならではの特産品となっています。諏訪地方でも、現在、地中深く掘りとし、冬期間の大根・ジャガイモ・白菜・キャベツなど、甘味が増すとして保存しています。おそらくは当時日本列島南岸部に細長く分布していた暖温帯広葉樹林・常緑広葉樹林帯にある静岡県東部などから、交換流通を経て植物質食料を入手し保存していたかもしれません。また鹿・猪の捕獲も春・秋の寒冷期ほど草木に邪魔されず集団狩猟が容易になります。
 シベリア系のマンモス動物群と中国北東部系のナウマンゾウ・オオツノシカ動物群など大型種の多くは、本州島では2万年前頃に、北海道では1万6千年前頃までに絶滅したようです。環状集落も、大型獣狩猟の終焉と軌を一にします。以後の狩猟対象の主体は猪・鹿等の中型獣となります。野兎等の小型獣はくくり罠等の罠猟で狩猟します。
 旧石器時代の終わり頃、今から1万年前、氷河期の終末とよばれ、地球全体の温暖化が進み、日本列島の気候も変わりました。日本海が形成され日本列島はアジア大陸から離れ、多雪となり降水量の増大で植生に大きな変化が生じました。日本特有の生物が分化したりしました。
 しかし、1万年前に「氷河期」が終わったのではなく、現在を「氷期と氷期の間の間氷期」、言わば「後氷河期」と考える科学者も多いのです。 いずれにしろ、やっと約1万年前に晩氷期が終わり、気候が温暖化する間氷期が訪れました。ブナ・コナラなどの温帯広葉樹林が急速に拡大し、森の豊富な採集資源を主な生活基盤とした縄文文化が、日本列島に花開いていきます。
 地球の温暖期の最中の縄文前期(6千年~5千年前)には、生活圏が高原上にまで及び、狩猟時代の美ヶ原に、その生活の痕跡を遺しています。日本最大の黒曜石産地・和田峠へは三城から徒歩で3~4時間の距離で、縄文時代、美ヶ原の山麓の入山辺の大和合に黒曜石を運び入れ加工した遺構が発見されています。縄文中期(5千年~4千年前)までこの周辺山麓が繁栄し、糸魚川流域から日本海まで縄文文化が栄え、松本周辺はその中心であったとみられています。
 縄文後期(4千年~3千年前)には地球の冷涼化が進行し、逐次低地へ移住しました。しかし、弥生時代以降、水田稲作文化が松本平にも伝播しますが、美ヶ原台地の恵まれた自然の恩恵の受容は続き、狩猟・漁労や植物採集の生業の場であったことには変わりません。また、化学肥料のなかった時代は、「カリシキ」といって草や粗朶を田畑に入れて肥料としました。美ヶ原山麓の耕地からカリシキ材料を山地に求めて、多くの人々が往来した事でしょう。


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