唐大和上東征伝

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 目次
 (一)鑑真大和上の時代背景
 (二)第一回目の渡航失敗
 (三)第二回目の渡航失敗
 (四)第三・四回目の渡航失敗
 (五)天宝七載春(第五回目渡航失敗)
 (六)鑑真一行、海南島にて
 (七)栄叡・祥彦の死、普照去る、鑑真失明
 (八)天宝十二載(第六回渡航準備)
 F鑑真、平城京に迎えられる
 (十)鑑真遷化
 (十一)『続日本紀』からの補足説明 続日本紀 巻第十三 聖武天皇(738年~740年)
 (十二)続日本紀 巻第十三 聖武天皇(738年~740年)
 (十三)続日本記 巻第十八 孝謙天皇(750年~752年)
 (十四)続日本紀 巻第十九 (孝謙天皇・西暦753年~756年)
 (十五)鑑真と関わった人々

 「唐大和上東征伝」は、鑑真に随伴して来日した思託(したく)が著した『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』を基礎資料にして、重ねて鑑真和上の行状を伝聞により、淡海真人三船(おうみのまひとみふね)が著述した。
 尚、「唐大和上東征伝」の「東征」の「征」は「征(せい)する」の意ではなく、「旅立つ」に通じる。
「唐大和上東征伝」は、鑑真の遷化直後に思託により著されたという全3巻の伝記を圧縮した、いわば略本とでも云うべき書であったようだ。
 現代では、他の書に引用されている部分で、その断片を知るのみであるが、その分量が3巻という比較的大部であり、また難解な伝記であったため日本に適さないと考えたか、思託自ら、淡海三船に新たに鑑真の伝記を著すことを依頼し、成ったものといわれている。

(一)鑑真大和上の時代背景
 大和上、諱は鑑真、揚州江陽県の人で、俗姓は淳干(じゅんう)。説話の比喩や弁争の論理を磨く弁士であった斉の淳干髠(じゅんうこん)の後裔であった。
 淳于氏は古代中国では名門で、司馬遷の『史記列伝第14の孟子・荀卿列伝』に名前が記さている。淳于髠は斉の6人の弁士の筆頭であった。現在の山東省に斉の首都・臨淄(りんし)があり、その首都の城門が稷門(しょくもん)と呼ばれた。
 斉の威王・宣王が学者を厚遇したため、臨淄に天下の賢者が集まり、学問が栄えたという。稷門付近は「稷下」と呼ばれ、多くの学者が集まったことから、「稷下の士」という言葉も生まれた。
 淳于髠は、魏の恵王に招かれたが、2度とも一言も発しなかった。恵王が、その真意を尋ねさせたところ、王の心が余所に奪われていたので黙っていた、と答えた。
 その恵王の時代、度重なる敗戦により、魏は衰え、韓と共に斉に服属することとなり、『梁』とも呼ばれるようになる。文侯以来守られてきた覇権を失った。
『史記列伝第14の孟子・荀卿列伝』には、『梁』の惠王として登場する。恵王が孟子を招いた時「私はこれほどまでに徳を施しているのに、どうして人材は私の元に集まらないのだろうか」と尋ねと、孟子は、戦場から百歩逃げた兵士を、五十歩逃げた兵士が笑うという例え話をし、恵王の徳の未熟さを諭した。それが「五十歩百歩」の故事となった。
 唐王朝3代の高宗は、天智天皇7(668)年、新羅と同盟して、隋の煬帝が敗北して以来、中国王朝の脅威であった高句麗を滅亡させた。その高宗の没後684年、李旦の同母兄の中宗が、母の武則天(ぶそくてん;則天武后)によって廃位されたことにより、李旦が睿宗(えいそう)として即位した。しかし皇帝は武則天の傀儡に過ぎず、政治的な実権は皆無であった。
 一旦は、韋玄貞の娘が中宗の皇后となり、韋后(いこう)と呼ばれたが、翌年、睿宗が武則天によって房州に流されると行動を共にした。  
 (唐;載初元年/武周;天授元年)の690年、睿宗は廃位され、武則天が自ら皇帝に即位し、武周王朝を建国した。中国史上唯一の女帝であった。
 唐代皇帝の姓は「李」、老子の本名は「李耳」、帝室は老子の末裔という意識が強かった。唐ではすべからく「道先仏後」であった。唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。 『大雲経(だいうんきょう)』は、中国五胡十六国の一つ北涼(ほくりょう;397~439)の曇無讖(どんむしん)によって漢訳された『大方等無想大雲経』6巻の略称である。曇無讖は北涼で訳経・宣教した中インド出身の僧で、敦煌から 、玄始1(412)年、北涼の第2代王・沮渠蒙遜(そきょもうそん)により姑臧(甘粛省武威県)に迎えられた。3年間、漢語を学び『大雲経』『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』『金光明経』『大集経』『海竜王経』などを訳出した。特に『大般涅槃経』は、呪術に通ずることから、曇無讖は魏の世祖太武帝拓跋燾が、使徒を遣わし迎えようとした。沮渠蒙遜に「もし讖を渡さざれば兵を加えるべし」と恫喝した。その魏に赴く途上、曇無讖の呪力を恐れた沮渠蒙遜の遣わした刺客のために殺害された。享年49歳。
大雲経』は、国王の仏教保護を説く仏典で、浄光天女が王位を嗣ぐという一節があった。武則天は、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと仮託し、『大雲経』に付会した讖文(しんもん;予言書)を創らせ、「太后は弥勒仏の下生(げしょう;神仏がこの世に現れること)なり、まさに唐に代わって帝位に即くべし」と喧伝した。
 永昌1(689)年7月、『大雲経』を全国に配布し、武周革命の端緒となった。そして『大雲経』を納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。これが、後年、聖武天皇により国分寺制度の手本となった。 晩年の武則天は、病床に臥せがちとなった。この状況下、唐復活の機運が高まり、神龍元(705)年1月24日、宰相・張柬之により武則天は退位を迫られ、中宗が復位し、国号も唐に戻った。
 中宗が復位し、皇后に復活するや、韋后は皇帝に非常に信任され、朝政に参加するようになる。また韋后との間にもうけた安楽公主もまた朝政に参加し、韋后の父韋玄貞(い げんてい)は王に封じられた。
 中宗は韋一族の専横を許し、外戚を重用した宮廷専断の悪政となり、廷臣たちは反発した。安楽公主は自ら皇太女、さらには皇帝となることを望み、韋后もまた武則天に倣い、高宗における武則天のごとく振舞った。 韋后は、武則天の甥である元慶の子・武三思(ぶさんし;?‐707)や従兄の韋温らと共に朝政を掌握した。武三思と私通し、売官によって富商などを官に任じた。景雲4(710)年、韋后の淫乱な行為が告発されると、韋后は処断を恐れ、自らの即位を意図し、安楽公主と共に中宗を毒殺し、中宗の末子の温王李重茂(殤帝;しょうてい;韋后は継母)を擁立した。後に武則天と並べて武韋の禍(ぶいのか)と称された。
 間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位し、殤帝は廃位された。韋后と安楽公主は殺害され、その身分も庶人に落とされた。中宗は定陵に埋葬された。
 鑑真の父は、先に揚州大雲寺智満禅師に就いて戒を受け禅門に学んだ。大和上は14才の時、父に随って寺に入り仏像を見上げて感応し、それが起因となって、父に出家を願った。父は、その志を奇特として許した。 この時代、大周則天長安元(701)年、その前年に皇帝として即位した武周王朝の創始・武則天の勅命があり、唐の諸州は、僧の得度を公的に制度化した。それで、鑑真は智満禅師に就いて出家して、沙彌となり大雲寺に配された。後に、この寺は龍興寺と名を改めた。
 神龍元(705)年1月24日、大臣や将軍に迫られ、武則天は退位し、中宗が復位した。唐の国号が復活した。その年に、鑑真は道岸律師に師事し、如来に成ろうと修行する菩薩僧として、菩薩戒(大乗仏教における菩薩僧と大乗の信者に与えられる戒)を受けた。 鑑真は、景龍元年、錫杖(しゃくじょう;杖の頭部に、塔婆形の数個の環が掛けてあり、地面を突くと鳴る)を杖(つ)いて東都(洛陽)から西京(長安)に入った。翌神龍2(706)年3月28日、西京の実際寺で登壇して、具足戒(完全な戒といわれ、出家教団・僧伽;そうが;に入るための条件で、10人の僧が入団希望者に、その戒を守ることを誓わせる儀式)を受けた。
 荊州(けいしゅう)では、南泉寺の弘景律師を、師の僧とした。2京(洛陽と長安)を巡遊して、三蔵(経、律、論)を学究した。 後に、淮南(わいなん)に帰って戒律を教授する。時の皇帝は玄宗皇帝の時代に、鑑真25才、江淮(こうわい)において、独り立ちし化主(仏の教えを説く人)となった。これ以降、仏事(教化・説教など仏の行為)を興立して民衆を済化(せいか;教化し善に導く)した。極めて繁忙となり、いちいち記せない程であった。
 日本の天平5(733)年、舎人親王から伝戒師を招請する特命を受けた沙門栄叡(ようえい)及び普照(ふしょう)等が遣唐大使・多治比真人広成に随って唐国に渡り留学した。
 栄叡と普照は唐に留学すること既に10年に亘り、迎えの遣唐使船がいつ来るか定かでない。舎人親王の特命もあり、迎えを待たずに日本へ戻ろうとした。
 栄叡と普照は西京の安国寺の僧道航・澄観、東都の僧徳清、高麗の僧如海に呼びかけ、また、宰相の李林甫の兄林宗の書き付けをもらって、揚州の倉曹(食料を司る)の役職にある李湊に大船を造らせ、買い求めた渡海用の食糧をその地に送った。また、日本国の同学の留学生の僧玄朗・玄法の二人も誘ってともに楊州に行った。
 この年、唐の天宝元年/日本の天平14(742)年10月、鑑真は揚州大明寺にいて、民衆に律を講じていた。栄叡と普照は大明寺を訪れて鑑真の足下に頂礼(ひれ伏して頭を地に付けて拝む)し「仏法は東流して日本国に伝わりました。しかし仏法の正道を伝え広める人がいません。日本国には昔、聖徳太子と言う人いて『二百年の後、聖教が日本に於いて興る』と言い残しました。今、この幸運な巡り合わせにより、願わくは鑑真大和上が、日本へ東遊して戴ければ、日本国内に仏法の正道が伝教されます」と懇願した。
  鑑真は「昔、南岳の思禅師が死に際し『死んだ後は倭の国の皇子に生まれ変わり仏法を興隆し衆生を済度する』と言ったと聞く」「また、日本国の長屋王は仏法を崇敬して千の袈裟を造って、この国の大徳・衆僧に喜捨した。その袈裟の縁に『風月同天 山川異域(山川の国が異なっても風月は天を同じくする、仏の子は共に来て縁を結ばんとす)』と刺繍取りされた、と聞く。このことにより、誠に日本国は仏法興隆に深い縁のある国である、と知る。「今、我が同法の衆のうちに誰かこの遠国の要請に応えて、日本国に行って法を伝える者あらんや」と強く弟子たちに要請した。
 鑑真は弟子達にその思いを語ったが、黙然として一人も答える者がなかった。やや暫くして、鑑真の愛弟子・祥彦(しょうげん)が敢て言う。「かの国は甚だ遠く命懸けとなります。滄海淼漫(そうかいびょうまん=青海原が果てしなく広がっている)であり、百に一人も行くことは叶わないでしょう。しかも、人の身としてこの世に生まれることは得難く、まして中国に生まれることはさらに困難なことです。我々は修行途上の身です。道果(仏道の成果)は、未だその証(仏の教えにより真理を体得する)を得ていません。そのため、衆僧はただ押し黙って、応答ができないのです」と言い添えた。
 日本への渡航は、遣唐使や鑑真の渡航の過程でも明らかなように、極めて困難を伴っていた時代であった。大和上は「是は法事のためである。何ぞ身命を惜しむことあらんや。諸人が行かないとあれば、我即ち行くのみ」と、その仏道者としての気概を弟子たちに語った。
 祥彦も、その唐突さに驚愕しながらも「鑑真大和上がもし行くと仰せであれば、私もまたついて行きます」と答えた。ここに、僧道興・道航・神宗・忍霊・明烈・道黙、・道因・法蔵・法載・曇静・道翼・幽巌・如海・澄観・徳清・思託などの21人が、心を同じくして鑑真に同行することを願った。

(二)第一回目の渡航失敗
 肝要な方針が決まり、初めて東河に出掛けて船を造った。揚州の倉曹・李湊は、宰相の李林甫の兄林宗の書状を、詳細に検討した上で、船を造り食料を買い揃えた。大和上・栄叡・普照等も、同じく既済寺にあって乾燥食料を準備し揃えた。但し「供具を持って天台山国清寺へ赴き、衆僧と香・華・飲食物などで供養を行う」のを口実とした()
 唐の大徳鑑真が外国に出ることについて皇帝の許可が出ないことが予想されたので、このような名目で動いた)。
 この年天平天宝2(743)年は、海賊の動きが活発で物騒であった。台州・温州・明州の海路は、その害を蒙り海路は塞がり、公私の往来は断たれていた。僧道航が言った。「今、他国に向かうは戒法を伝えんが為なり。皆、高徳の行を為すにあたり、反対をする者は除かなければいけません。如海等のように学究が進んでいない者は留まるがよい」と。 如海は大いに怒り、州に行って採訪処置使(各道に置かれ、地方の役人の善・悪を探り、 朝廷に報告するのが任務)がいる庁に上がり次のように告げた。
 「大使はご存知か。僧道航という者が船を造り海に出て海賊と連なっていることを、都では数人の者が食料を買い求め、既済・開元・大明寺にいること、又、5百人もの海賊が城に入り込もうとしていることを」。 淮南の採訪使・班景青が、これを聞いて大いに驚き、直ちに、部下に命じて如海を獄に入れ推問させた。また、官人を諸寺に差し向けて賊徒を捕らえさせた。遂に、既済寺で食料を探し出し、大明寺では日本の僧普照を捕らえ、開元寺では玄朗・玄法を捕らえた。一人栄叡は走って池に入り水の中に仰臥し隠れた。間もなく水面が動く様子から、官人は水に入り栄叡も捕らえられた。皆は県に送られて推問された。 僧道航は民家に隠れたが、捕らえられて同じく獄中に拘禁された。
 問うて曰く「海賊と連なる者は何人居るのか」。道航は「賊の一味ではない。(道)航は、宰相李林甫の兄の林宗家の僧です。功徳を得るため天台山国清寺に行くように言われたのです。嶺を越えるは辛苦を伴う、船を造って海路より行くしかありません。今、林宗の書面2通は倉曹の所にあります」と、打ち合わせ通り「供具を持って天台山国清寺に行って衆僧と供養する」のだと答えた。 採訪使は倉曹に問うと、これは「本当のことです」と答えた。鴻艪(こうろ;外国人を扱う役人)はその書を検めて見て言う。「阿師(僧侶)には問題はないだろう。ただ、今は海賊の動きが活発で、海を通航すべきではない」と。その造船した4船は、官吏が没収し、それ以外のものは僧に返された。
 その誣告者・僧如海は之がために還俗させられた上、60回の鞭打ちと決し、本貫(本籍地)に逓送された。日本の僧4人は楊州に上奏し都に奏聞した。鴻臚は検案して、元の配寺に使いを遣り問い合わせた。寺では「その僧は乗り物に乗って去り、その後見ていません」と報告した。官人は鴻臚に帰ってそのことを上奏した。  やがて、楊州に勅命が届いた。「その僧栄叡等は、番僧(外国の僧)にして、既に唐に入り学問をしている。年毎に絹25匹と四季毎に時服を賜い、天子の行列に就き従うことを許されている。偽濫僧ではない。今、国に帰りたいとしている。思うように放還し、よろしく揚州に、先例通り送遣すべし」という指示であった。
 (鎌倉時代の「塵袋(ちりぶくろ)」に「乞食等の沙門の形なれども、其の行儀僧にもあらぬを濫僧と名付く」とある。その「偽濫僧」の多くは、実は唐朝や奈良朝以降、逃散した公民のなれの果てであった)。
  時に、栄叡と普照等は4月に拘禁され、8月に放免された(第一回目の渡航失敗)。玄朗・玄法は袂を分かち日本へ帰って行った。

(三)第二回目の渡航失敗
  時に、栄叡と普照は次のように話し合った。「我等の本願は、日本に戒法を伝えるがため、多数の高徳にお願いをして、本国にお連れすることにある。今、揚州の勅は『我等4人を(日本国に)送る』とされた。諸師を連れ帰ることができずに空しく帰るのでは益がない。どうしたらよかろう。さりとて官吏が「送る」というを、拒むわけにはいかないし」。 それでも所期の目的どおり、師を本国に連れ帰って戒法を流伝すると決した。道すがら官所を避けて鑑真のところに行き相談した。鑑真は「それ程、愁うることではない。方便を尽くして必ず本願を遂げる」と。
 それから間もなく、80貫の銭を出して嶺南道の採訪使劉臣隣の軍舟一隻を買い、船員18人を雇って次の食糧等の積荷を買い揃えた(第二回目渡航準備)。
 米百石、豆三千石、チーズ百八十斤、麺五十石、干し焼餅二箱、干し蒸餅一箱、干し薄餅一万個、饅頭一箱半、漆塗り蓋付き盆三十具、兼将画五頂像一鋪、宝像一鋪、金泥像一躯、六枚折の佛菩薩屏風一具、金字華厳経一部、金字大品経一部、金字大集経一部、金字大涅槃経一部、雑経・論章集総て一百部、月令の屏風一具、行天の屏風五具、道場幢(のぼり)百二十口、珠幢十四條、玉環の手幢八口、螺鈿経箱五十口、銅瓶二十口、華氈(かせん;模様のある毛布)二十四領、袈裟一千領、褊杉(へんさん;僧の衣服)一千対、座具一千床、大銅蓋四口、竹葉蓋四十口、大銅盤二十面、中銅版二十面、小銅盤四十四面、一尺面の銅畳八十面、少銅畳二百面、白藤箪(小箱)十六領、五色の藤箪六領、麝香甘、沈香・甲香・甘松香・龍脳香・膽唐香・安息香・桟香・零陵香・青木香・薫陸香総て六百余斤有り、また、華鉢・呵梨勒・胡椒・阿魏石・蜜・蔗糖等五百余斤、蜜蜂十斛、甘蔗八十束、青銭十千貫、正炉銭十千貫、紫邊銭五千貫、羅ぼく頭二千枚、麻靴三十量、蔕胃三十個有り。僧祥彦・道與・徳清・栄叡・普照・思託等十七人、玉作人・画師・雕檀(ちょうだん;飾り彫師)・彫刻・鋳物・刺繍・修文・石碑等の工手ら総勢185人が同じ一隻の船に乗った。
 天宝2(743)年12月帆を挙げて揚子江を下り狼溝浦(ろうごうほ)に入ると、強い北西の季節風を受けて漂浪し、あげくに波が船を激しく撃って壊した。人は全て岸に上がった。しかし潮が満ちてきて、水は人の腰に達した。鑑真は烏草樹(さしぶ)の上に乗った。余人は皆水中にあって、冬の寒風に急激に晒され甚だしく辛苦した。
 更に船を修理して下って大板山に入ったが、船を停泊させたが進むことができなかった。嶼山に下って住すること一月、好風を待って出帆し、乗名山に向かおうとした。風が急で浪高く岸に着けることできず、どうにも方策がつかない。
 僅かに険岸を離れようとして、かえって岩礁に乗り上げ、遂には船が破壊し、人、皆、船ともに岸に打ち上げられた。水・米はともに尽きて飢渇すること3日、風止み浪静まり漁民が水・米を持って来て、救われた。また、5日を経て、航行する官人が寄ってきて消息を問う。
 官人は明州の太守に処分を問い合わせた。明州の太白山の麓にある阿育王寺(あしょかおうじ)に収容された(第二回目の渡航失敗)。

(四)第三・四回目の渡航失敗
 明州は寧波(ニンポー)の古名で、唐宋代にこの名で呼ばれていた。古くは越州の一県であった。玄宗の治世、開元21(733)年、越州鄮県(ぼうけん)の令・王叔達が、奏上して越州の一県を割いて、特に明州を置き、更に三県を開き、一州四県とした。
 中国の浙江省寧波の市街から約16kmの距離にある阿育王山の麓に、阿育王山広利禅寺がある。紀元前3世紀、インド・マウリヤ朝の第3代アショーカ王(阿育王)の時代、世界各地に8,400あまりの仏舎利塔が建設されたという。そのうち19の塔が中国に建てられたといわれている。
 阿育王寺の舎利宝塔(しゃりほうとう)が中国で現存する唯一の仏舎利塔とされている。阿育王寺の創建は、西晋の時代の西暦282年である。古来より舎利信仰の寺として有名であった。4世紀に阿育王塔が建てられている。唐代には律寺であった。北宋代に禅寺となり、南宋時代には五山十刹の禅宗五山の第5位に列せられた。  天宝3(744)年、越州竜興寺の衆僧が鑑真に願って律を受講し受戒した。更に杭州・湖州・宣州の衆僧達が絶え間なく訪れ、鑑真和上に請うて律を受講した。やがて鑑真は、自ら巡遊し開講して授戒を行った。
 漸く阿育王寺に戻ると、越州の衆僧が鑑真の日本国への渡航を知り、州官に告発した。「日本国の僧栄叡が、(鑑真)大和上を誘い日本国へ渡海させようとしている」と、それにより山陰県の尉は兵を率い栄叡を探し出して、枷を付けて京へ逓送させようとした。その途上、杭州で、栄叡は病に伏せて療治を願った。暫くして「栄叡は病死した」と偽り、それにより死体として放擲された(第三回渡航失敗)。
 栄叡・普照は、求法のためであれば、その前後の災いは必然で、忍従は当然であり、しかも予想していた。その強固な志は退悔することなく、僧法進ら2人が近侍し、福州に向かう船を買い食料を買い揃えた(第四回渡航準備)。
 鑑真は諸門徒や祥彦・栄叡・普照・思託などの30人を率いて阿育王の塔に辞礼し、仏跡を巡礼しながら、台州の寧海県の白泉寺に辿り着き宿とした。翌日、齋(さい;食事)の後、山越えとなり、その嶺が険しく、道が遠いため日暮れて闇夜となった。谷越えの水は冷たく膝を没し、飛雪に視界が奪われた。寒苦は続き、明くる日、嶺を越えて唐興県に入った。日暮れて漸く国寺に入った。
 鑑真の聖跡巡礼は続き、始豊県を経て臨海県に入り、遂に黄巌県に至った。そして永嘉郡の路を辿り禅林寺に到着し宿とした。明くる朝早くに食し、温州に向かおうとしたが、突然、採訪使の使いが来て捕えられた。 揚州に在る鑑真の弟子の霊裕及び諸寺の三綱(さんごう)・衆僧が相談して決めたことであった。「我か大師和尚は、願を発し、日本国に向かおうとしている。山に登り海を渡って、数年艱苦している。滄溟万里(そうめいばんり;果てしない青海原)、生死の保障はない。共に官に告発し、行く手を遮り留住していただこう」。
 三綱とは、寺内の僧尼を統括し、寺院を管理・運営する僧職で、上座(じようざ)・寺主(じしゆ)・都維那(ついな)の3者がいた。インドや中国南北朝時代の寺院の統括者として、上座または寺主、もしくは都維那が置かれていたのが発端であった。上座は、年長の高徳者が任じられ、寺院の最高責任者であった。寺主は寺院内における事務・経営の責任者で、都維那は僧尼の戒律・学問に関する監督責任者であった。各寺院に一律に3者が置かれたのは唐代からで、『唐六典(とうりくてん)』に、「寺ごとに上座1人・寺主1人・都維那1人が共に衆事を綱統す」と定めた。
 日本でも7世紀中葉に一部の寺院に「寺主」が置かれていたが、8世紀には唐制に倣い各寺院に三綱が置かれた。 霊裕と諸寺の三綱が、打ち揃って州県に上申書を提出した。それを受理し、江東道の採訪使は、牒を諸州に下し、先ずは通過した所の諸寺の三綱を追捕し、獄にその身を拘束して推問した。その結果、足跡をたどるうちに禅林寺に達し、大和尚を捕捉し、使に命じ十重囲繞の防護の上、押送した。 採訪使の所に連れられる行路、大和尚(鑑真)は、至る所の州県の官人に参迎され、礼拝・歓喜して迎えられた。漸く拘禁されていた三綱等は解き放たれた。
 採訪使の処分は「大和尚を従来通り本寺に居住し、他国に行ってはならない。三綱らは、それを防護するよう」命じた。 諸州の道俗は、大和尚の帰還を聞き、各々、飲食・衣服・散華(さんげ)・焼香の四事の供養を弁(わきま)えて、競うように慶賀に訪れ、横に列をなし次々に手を把って慰労した。独り大和尚だけが、憂愁に沈んでいた。
 大和尚・鑑真は霊祐を呵責して、顔を合わせようともしない。霊裕は、日日懺謝(懺悔と謝罪)して、師の許しを得て歓喜(かんぎ;身の震えるような喜び)が叶うことを願った。毎夜、一更(およそ現在の午後7時または8時から2時間をいう)より立て五更(およそ現在の午前3時から午前5時)にわたり、罪を謝した。それが60日に及んだ。諸寺の三綱大徳も、共に来て礼謝して歓喜を乞う。大和尚は、漸く顔を合わせるだけであった(第四回目渡航失敗)。

(五)天宝七載春(第五回目渡航失敗)
 天宝7(748)載の春、栄叡・普照は、長江北岸の同安郡より、揚州(江蘇省)にある崇福寺にいる大和尚を訪ねた。大和尚は、二人と方策を重ね、天宝2載の時と同様、舟を造り香薬を買い求め、百一物(ひゃくいちもつ;僧の生活用品の総称)を装備することにした。
 同行する者は、僧では、祥彦・神倉・光演・頓悟・道祖・如高・徳清・日悟・栄叡・普照・思託などの他、道俗14人、及び水手18人を教化して確保し、又鑑真に随行を願う者を合せて35人となった。
 6月27日、崇福寺より出発し、揚州の新河に出て、舟に乗り、常州の界狼山に達した。風が急となり、浪高く、三山を旋転したようであった。明くる日、風を得て越州の界三塔山に登り、停住すること一月、好風を得て発し、署風山に至り、また停住すること一月となった。
 10月16日の早朝、大和尚が「昨夜夢に三官人を見た。一人は緋の袈裟を着け、二人は緑の袈裟を着け岸上に於いて拝別した。これは、国神が、自分が日本に行くことを許されて、別れのため夢枕にお立ちになったと思える。おそらく今度は必ず渡海できるだろう」と。暫くして、風が吹き、頂岸山を目指して出発した。
 東南の方に山を見えた。日が昇ると、その山が消滅した。蜃気楼とわかった。岸より漸く遠くに出ると、風が急となり波が高く激しくなった。海水が墨のように黒くなり、沸き立つ波を一度おどり越えると、高山に上るようであった。 怒濤が再び寄せと、深谷に入ったようだ。人は皆荒酔して、ただひたすら観音を唱えた。
 舟人が「船は最早、沈みそうだ。物惜しみしている場合ではない」と告げ、直ちに空中に投げ捨てようとした(沈没を避けるために積荷を海に捨てて船を軽くしようとした)。その空中から声があり「投げ捨てることなかれ、投げ捨てることなかれ」と聞こえた。すると風浪は直ちに穏やかになった。夜半の時、船人が「恐れる事なかれ。四神王が甲(かぶと)を着し杖をとり、二人は舳にいます。二人は帆柱の基にいます」。衆人これを聞き、心安んじた。
 3日目、蛇が海を往く。その蛇の長さは大きなもので1丈余り、小なるものは五尺余り、色は皆、班(まだら)で海上に満ちて浮ぶ、同じく3日目、飛魚が空中に満ち天日を遮った。その長さ一尺許り。5日目、飛鳥、海を往く。鳥の大きさは人ほどで、飛来して舟上に集まった。舟が重くなり没する危険が生じた。手で追い払おうとすると、鳥たちは、その手を食んだ。
 それから2日経ち食料が尽きた。しかも急風、高浪となり、衆僧、皆、悩乱し耐え臥した。 ただ普照は、毎日、食時に生米を少し許り、衆僧に配り、中食にあてた。舟上に水が無くなり、米を噛めば喉が乾き咽に入らず、吐こうするが吐けず、鹹水を飲むと、当座は腹に満ちるが『一生の辛苦なんぞ是より烈しきか』。
 海中に4匹の金の魚が寄ってきた。長さ各々一丈ばかり、走って船の4辺を巡る。明けて早朝、風止んで山を見る。船上の人総てが水に渇き、瀕死の状態となった。 栄叡が、顔面を忽然として怡悦(いえつ;喜悦)して、その訳を言う。夢に官人を見た。我に懺悔を受けんことを請うた。栄叡は『仏道修行が足りないためか、甚だ渇いて、水が欲しい』というと、彼の官人は水を取って栄叡に与えた。水の色は乳汁ようだった。飲むと甚だ美味しかった。心が清涼となった。 栄叡は彼の官人に『船の上の30余人は、多くの日を数えるが、未だ水を飲んでいないため、大いに喉が渇いている。擅越(だんおつ;信者)であれば、水を汲んで届けて欲しい』と伝えた。その時、官人は、雨の司の老人を呼んで『汝等は簡単に大事をやり遂げられる人々である。急いで水を送り届けよ』と命じた。
 「急いで、皆は椀を取って待つべし」と、栄叡の吉夢のように、水は今まさに船上の人々にもたらされようとしている。これを聞いて皆が歓喜した。明くる日の未の刻に、西南の空に雲が起ち、船の上を覆って雨が降り注いだ。皆、椀に受けて飲んだ。 それから2日目、また雨が降った。船上の皆は、飽きて足りていた。明くる早朝、岸近くに4つの白魚が迎えに来て、船を導き直ちに船が停泊できる浦に着港した。舟人たちは、競って椀を持って岸頭に上がり、水を求めた。 一つの小さな岡を過ぎると池水と出合った。清涼甘美で、衆人競って飲みて各々飽満した。明くる日、更に池に向かって水を汲まんとしたが、昨日の池の場所は、陸地のみで池は見当たらない。それぞれが皆、悲喜こもごも、これは神霊が化出させた池であったと知った。
 この時期、冬11月、花が開敷(かいふ;開花)し、樹の実や竹や筍(たけのこ)が生育し、まさに夏のようであった。凡そ海中に在ること14日を経て、漸く着岸した。浦百姓(漁村の人)を探すと、4人の経紀(旅人)に出会った。道筋に導いてくれて去ったが、その4人が口々に「大和上には大いなる果報があるため、弟子に禍が及んでいない。それが無ければ、死人も出ていたであろう。この地域の人々は人を食らう。急いで離れた方がよい」と告げた。 直ちに、船を引いて浦内に漂った。晩に一人、髪に覆われ人が刀を帯びて現れた。全員が大いに怖れた。食物を与えると、都合よく去っていった。
 夜であったが、直ちに浦を出て、3日後、振州(海南島南端;現在の三亜;サンヤー)の江口に到達し船を泊めた。その地の経紀の人が郡に行き報せた。当地の別駕(諸国の地方副長官の唐名)馮崇債(ふうすうさい)は兵4百余人を遣わして迎え、引率して州城に到着した(第四回目渡航失敗)。

(六)鑑真一行、海南島にて
 別駕が迎えに来て「弟子(馮崇債は自らを鑑真の弟子と称した)は、早くに大和上の来る事を知っていました。昨夜、夢に、姓が豊田という僧が現れました。馮崇債の舅(きゅう;母の兄弟)という。この中に豊田という姓の者がいるだろうか」。衆僧の全員が「いない」と答えたが、馮崇債は「ここに豊田なる人はおりませんが、大和上は、弟子の私にとっては舅となる方なのでしょう」と言った。
 そこで鑑真らを宅内に迎え入れると、斎食(さいじき)を調理し供養した。また、大守の庁内に会を設け受戒した。そして鑑真一行を州の大雲寺に丁寧に迎い入れた。当時、寺の仏殿が壊廃していた。衆僧は、各々衣物を脱ぎ捨て仏殿を造る作業にあたった。そこに住いして一年にして造り終えた。
 別駕の馮崇債自らが、甲兵8百余人を率いて送り、40余日を経て万安州に到着した。州の大首領馮若芳の願いにより、その家に留まり三日供養を行った。
 若芳は毎年、ペルシャの商船2~3艘を掠め取り、その財貨を略取し蓄財した。また人を掠めて奴婢とした。その奴婢の居るところは南北3日の行程、東西5日の行程の広さに及んだ。その間の村々は、総て馮若芳の奴婢の住む所であった。
 若芳は客と会する度に、常に乳頭香(インドやペルシャで採れる香木)を用いて灯火とした。一焼き一百余斤という。その邸宅の裏には蘇芳木(すおうのき;赤色の染料)が山のように露積みされていた。その他の財物もまた同じ状態であった。岸州との州境に行っても賊はいないので、別駕は別れて戻って行った。
 鑑真・栄叡・普照らは海路より40余日を経て、岸州に到着した。州の遊えき大使の張雲が出迎えて拝謁し、開元寺に住まわせた。官寮の参省が斎食を調理し、料理を施すこと一屋に盈満(ようまん;あふれる)した。彼の地の珍異な料理、即ち果物の益知子・檳椰子(びんろうじ;檳椰はヤシ科の植物)・茘支子(れいしじ;ムクロジ科)・龍眼(りゅうがん;同じムクロジ科ライチに似ている、レイシ/ライチと比べリュウガンの実は小さく種が大きい)・甘蕉(ばなな)・拘莚(くえん)が、高杯の大きな鉢盂(はつう)に盛られ、蜂蜜を呼び寄せる蜜花よりも甘く、その美しさは、七宝、即ち無量寿経では金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・シャコガイの貝殻・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)色の様々な輝きがあった。
  膽唐香樹は、叢生して林となり、風が吹き寄せれば、香は五里の外に匂った。また、波羅奈樹があり、果実の大きさは冬瓜ほどであった。(現代では活字化されていない字が多く、中略)
 10月に田を作り、正月に粟を収穫する。蚕を養うこと8度、稲を収穫すること2回、男は木笠をかぶり、女は真綿服を着る。人は皆、刺青を彫り、歯を抜歯し、顔に刺繍し、鼻に飲む(鼻に飲む異なる風習では、解しようがない)、それは異なる風俗であった。
 大使以下典正にいたるまで順番に衆僧を供養した。 大使は自らの手で食事を提供した。優曇鉢樹の葉に、生菜を満たし、優曇鉢の種子を添えて、衆僧に料理として饗応した。大使は「大和尚はご存知ですか、これは優曇鉢樹の種子です。弟子(大使)は、大和尚を持て成すことができたことは、優曇鉢の花に偶々めぐりあう程に稀なことなのです。その葉は赤色、円形で一尺余です。種の色は、紫丹にして、香りと味は甜美(甘美)です。振州は、火災に遭遇し大雲寺も共に焼失しました。大和尚は、振州の大使に要請され寺を再建しました」。
 その大和尚が寺を造ると聞くと、多くの奴婢を遣し、3日の内に、仏殿・講堂・博塔を構えた。その木材が余ると、丈六の釈迦文仏(しゃかもんぶつ;釈迦の尊称)の像を造り上げた。戒壇に登り授戒し、律を講じて得度を終えると、大使と別れて去った。 海南島の澄邁を目指した。県令に見送られ船に乗った。
 三日三夜にして雷州に達した。羅州・辨州・象州・白州・傭州・藤州・梧州・桂州等の官人・出家・長老が、送迎し礼拝・供養に付き従った。その回数は数え切れないほどであった。 始安の都督や黨の公馮・古璞などは、徒歩で城外に出て、五体を地に投げ、稽首し足に接する礼をした。 開元寺に導かれ、初めて仏殿を開いた。香気が城に満ちた。城中の僧徒は、幢を擎ち、香を焼き、梵を唱え、雲の如く寺中に集った。州縣官人・百姓が、街衢をうめ満ち溢れ、礼拝・讃歎すること、日夜、絶へることがなかった。
 都督が来て、手ずから食を運び、衆僧を供養し、大和尚に願って、菩薩戒を受けた。その所の都督や74州の官人・選挙試学の人ら、一緒にこの州に集り、都督に随行して菩薩戒を受けた人、数知れず。 大和尚が、留住して一年経つと、南海郡の大都督・五府経略採訪大使・攝御史中丞・広州太守廬煥は、牒を諸州に下して、大和尚を広府に迎えるための指示を出した。 その出発の際、馮都督が、近侍し送ることを願った。大和尚を自ら扶けて、船上に乗せると「古璞(こはく;自分を古くて磨かれていない玉と称した)、大和尚と終には彌勒の天宮で出合いましょう」と、悲泣して別れ去った。

(七)栄叡・祥彦の死、普照去る、鑑真失明
 桂江(広西チワン族自治区東部を流れる川)を下ること7日、梧州に到る。次いで、端州(現在の肇慶市一帯)の龍興寺に到る。栄叡が、奄然(えんぜん;俄かに)、遷化した。大和尚の哀慟(あいとう;哀しみ泣き叫ぶ)は悲切(ひせつ;悲痛)なり。喪を送って去る。
 端州の太守が迎へ導いて広州へ送ってくれた。廬都督が、多くの道俗を率いて城外に出て恭敬し、数々の諸事を承った。大雲寺に導き、四事供養し、登壇受戒した。この寺に呵梨弥樹が2株あった。その種子は大棗(たいそう;成熟したナツメの果実を乾燥させた生薬)のようだった。 又、開元寺に胡人(唐では広く塞外民族を称した)が来て、白檀を以って、華厳経九会の会座(えざ)を造るため、工匠60人を率いて来た。30年にして造り終わった。寺物の入費は、30萬貫銭であった。
  開元寺(かいげんじ)は、開元26(738)年、玄宗が勅によって各州に建立させた寺で、時の年号をとって名づけられた。 鑑真は天竺に徃こうと思った。採訪使劉臣鄰が、鑑真の意向を奏状すると、開元寺に留まって華厳経九会を供養するよう勅命が下った。「七宝荘厳(しっぽう‐しょうごん)に疑念を抱いてはならない」という。
 又、婆羅門の寺が3か所あって、梵僧(ぼんそう;戒律を守って清浄な行を修する僧)が居住していた。池に青蓮華(しょうれんげ)が有って、華・葉・根・茎それぞれから、不思議と香気が盛んに漂った。
 江中に婆羅門(インド)・波斯(ペルシャ)・崑崙(中国の西方)などの商舶が、数を知らず停泊していた。皆、香薬珍宝を山の如く積載していた。その商船の深さ6・7丈あり、獅子国(スリランカ)・大石国(?)・骨唐国(?)、白や赤色の極めて多くの種族の蛮人が、徃来し居住していた。
 大和尚は、一纛一軍(いっとういちぐん)の威厳ある天子に逆らえず、紫緋の色が、城に満ち、家々が軒を連ねる当地に住いして、一春を過ごした。ここから出発し韶州に向った。城を見返り、心をかたむけて、やがて遠くへ去った。江を船で往くこと7百余里、韶州の禅居寺に至り、留住すること3日、韶州の官人が迎えに来て法泉寺に入った。 則天武后が、慧能禅師(えのうぜんし)の為に造った寺であった。禅師の影像は、今も現存し、後に開元寺に移された。
 普照は、ここで大和尚の許を辞して嶺北に向い、明州の阿育王寺に去った。この年、天宝9載(750年)であった。その時に大和尚は、普照の手を執って悲泣して、戒律を伝えんが為、願を発して、海を過(よ)ぎるが、遂に日本国に至らず。本願を遂げず。ここにおいて袂を分かつ感慨は、例(たと)えようがない。 時に大和尚、頻りに炎熱を病み、眼光がはっきりしなくなった。ここに、能く目を治すと言う胡人が来て、療治を加えたが、眼は遂に明りを失った。
 後に霊鷲寺・広果寺に巡遊して、登壇受戒し、貞昌縣に至った。大ゆ嶺を過ぎ、処州(浙江省)の開元寺に至る。僕射(尚書僕射;しょうしょぼくや;さいしょう)鐘紹京が、大和尚の左隣に並び招請して宅に招き、壇を立てて戒を受けた。次に吉州(江西省)に至る。
 僧祥彦が、舟上で端坐して思託に尋ねた、大和尚は、「お目覚めか」と。思託は、「未だ眠られています」。彦は、「私は間もなく大和尚と死別するだろう」。思託は、大和尚に相談した。大和尚は、香を焼き、凭几(ひようき;脇息)を持ってきて、彦を几(き)に寄り掛からせて西方に向け、阿弥陀佛を念ぜさせた。彦は、一声阿弥陀佛を唱えて端坐し、寂然として一言も発しなかった。大和尚は、いくども彦、彦と呼ばわり、悲慟(ひどう;大声で泣き悲しむ)すること限りなかった。
 時に諸州の道俗が、大和尚が、嶺北より帰り下ると聞いて、四方より日毎に、3百人以上奔り集まり駢てん(べんてん=混雑)した。お供えの壇は光り輝いている。是より江州に向かって廬山の東林寺に至る。そこは晋の代、慧遠法師の居所であった。慧遠師が、ここに壇を立て、戒を授けると、天は、甘露を降らせたという。 今、大和尚は、この近くにあった。天宝9載(750年)、志恩律師が、この壇上において受戒を与えた。また、天が甘露を降らすことを感じた。道俗は晋の慧遠法師のことを思い出し慶びあった。
 大和上はこの地に留連すること既に3日が経った。潯陽(じんよう;江西省の揚子江岸九江市付近 に置かれた郡)の龍泉寺に向かう。 昔、遠法師は此処に寺を建てた。水無し、願を発して曰く「もし、この地で棲遅(せいち;ゆっくりと心静かに住むこと)ができるようにするため、泉を掘り出さしめよ」と、杖をもって地を叩いた。その時、二匹の青龍が錫杖を伝わって上がり、水が飛涌した。今尚、その水は地上に湧出すること3尺、よって、龍泉寺と名付けられた。
 これより陸行して、江州の城に至る。太守は追って、州内の僧・尼・道士・女官を集めた。州縣の官人・百姓は、仏前に香と花を供え、音楽を奏で、迎い入れ、留まるよう請い、三日供養をした。
 太守は、自ら潯陽縣より九江驛に至る。大和尚、舟に乗り、太守と別れ去る。これより7日、潤州江寧縣に至り、瓦官寺に入り、宝閣に登る。閣の高さ20丈。梁の武帝の建てる所であった。今に至って3百余年、微かに傾損すること有り。過去の一夜、暴風急に吹き、明朝、人看れば、閣の下の四隅に四神の跡有り。長さ三尺、地に入こと三寸。今、四神王の像を造って、閣の四角を扶持す。其の神跡、今尚、現存する。
 昔し梁の武帝、仏法を崇信して、伽藍を興建した。今も、江寧寺・彌勒寺・長慶寺・延祚寺等が遺こる。其の数、甚だ多い。仏像や仏堂を、天蓋・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)などで厳かに飾り、彫刻などにも、工巧が尽くされている。
 大和尚の弟子の僧霊祐は、大和尚の来ることを承って、遠く栖霞寺より迎へに来て、大和尚に見(まみ)え、五体投地し、進んで大和尚の足に接して、展転悲泣して歎じて曰く、我が大和尚、遠く海東に向う。自らは、一生、再観することができない、と思い込んでいました。今日、親しく礼拝し、誠に盲亀が目を開けて、日を見るが如くです。
 警戒灯が重なり明るくなり、昏衢を照らして再び明朗となった。導かれ栖霞寺に還り、留住すること3日して、退き攝山を下り、楊府に帰える。
 江を過ぎて新河の岸に至り、すなわち、揚子亭の既済寺に入る。江都の道俗走って道路に満つ。江中に船を向かえて舳艪(船首と船尾)が連接すように前後の船の舳と艫が触れ合うほど、たくさんの船があい連なった。 やがて城に入って、龍興寺に住いした。大和上南振州より来て、陽府に至り、通る所の州県は、壇を立て、戒を受け、空しくやり過ごす所はなかった。今、また、龍興・崇福・大明・延光等の寺においても律を講じ、戒を授け、暫くも停断することはなかった。
 昔、光州の道岸律師は、その時代、最も抜きん出て名高く、天下4百余州の人々の受戒の主となって、岸律師遷化の後、その弟子杭州の義威律師の名が響き四遠に振い、徳は中国中に流れた。 諸州もまた受戒の師となし、義威律師無常の後、開元21(733)年の時、大和上は年46に満つ。准南江の左浄持戒の人、唯、大和上独り秀でて比類なし、道俗は帰依して仰ぎ受戒の大師とした。 凡そ前後の期間、大律並びに疏(そ;注釈書)を講ずること40遍、律抄を講ずること70遍、軽重儀を講ずること10遍、羯磨疏(けましょ)を講ずること10遍、共に三学を修め博く五乗(諸仏の五種の教え)に達す。外には威儀(規律にかなった起居動作)に即し、内には奥理を究めた。講授の間、寺舎を造立し、十方(あらゆる)の衆僧を供養した。仏菩薩像を造ること数知れず。納の袈裟千領、布の袈裟2千余領を縫うて、五台山の僧に送り、無遮(むしゃ:寛容で制限や差別がない)の大会を設けて悲田(ひでん)を開いて貧病者を救済し、敬田(きょうでん)を啓(ひら)いて三宝を供養する(福徳を生じる物事を田にたとえていう。悲田とは、恵みを施すことによって福果を得られ、敬田とは、尊敬・信仰することによって福果を得られる)。
 一切経を写すこと3部、各々一万一千巻、その前後人を得度し戒を授けること略々計るに4万有余となる。その弟子の中、超群抜粋(とりわけ優れて)し世の師範となる者は、すなわち、揚州崇福寺の僧祥彦・潤州天響寺の僧道金・西京安国寺の僧よう光・潤州栖霞寺の僧希瑜・揚州白塔寺の僧法進・潤州栖霞寺の僧乾印・沛州相国寺の僧神よう・潤州三昧寺の僧法蔵・江州大林寺の僧志恩・洛州福光寺の僧霊祐・揚州既済寺の僧明烈・西京安国寺の僧明債・越州道樹寺の僧よう真・揚州興雲寺の僧恵琮・天台山国清寺の僧法雲等35人、皆、翹楚(ぎょうそ:俊秀)なり。各々、各地で仏行に専心し法を広め、世に多くの衆生を導化した。

(八)天宝十二載(第六回渡航準備)
 天宝12(753)年10月15日、日本国の使者、大使特進藤原朝臣清河・副使銀青光禄大夫(ぎんせいこうろくたいふ;従四位上)光禄卿(こうろくけい;宮内卿の唐名)大伴宿禰古麻呂・福使銀青光禄大夫秘書監(従四位上)吉備朝臣眞備・衛尉卿阿倍朝臣朝衡等が延光寺に来て、大和尚に申した。弟子等と、既に大和尚は5回も海を渡って日本国に向い、将に教を伝えようとされた事を知り、今、奉伺し身近に、接足礼拝できて歓喜しています。
 弟子等は、まず、大和上の尊号並びに持律(戒律を固く守る)の弟子5僧を記して、既に主上(玄宗)に奏聞しました。 主上は、戒を伝へる前に、道士を日本に伴う事を求めました。
 唐代皇帝の姓は「李」、老子の本名は「李耳」、帝室は老子の末裔という意識が強かった。唐ではすべからく「道先仏後」であった。 日本の君王は、先に道士の法を崇めず、そのため留春・桃原等の4人を残して道士の法を学ばせます、と奏上しました。そのため大和尚の名もまた奏上いたしました。退いて願いいたします。大和尚自らが、衆生を導くために臨機応変の手だてを用いる智慧(ちえ)をお出し下さい。 我ら弟子等は、自ら国信物(玄宗から聖武への返礼品)を載せる船4舶が、既に旅装を整えています(第六回渡航準備)。渡海は難しいことではありません。既に、大和上の許諾が得られていますし・・・・
 揚州の道俗は、皆「大和上日本国に向かおうとしている」と云う。この状況下、龍興寺の警戒は、甚だ固く進発する手立てがない。その時、務州(ぶしゅう)より来た仁幹禅師が、密かに大和上が出航しょうとしているのを知り、船を江頭に備具して、いつでも舫いを解いて出帆できるように準備し、港で大和上を待っていた。
 天宝12載10月29日、戌時(午後8時前後)に龍興寺より出て江頭に至り、船に乗って下る。時に、24人の沙彌が悲泣して走り来て大和上に曰く。
 「大和尚、今海東に向かい給えば、再びお目にかかる手立てがありません。我らには、今しかありません。最後の結縁に預からんことをお願いいたします」。この江辺で、24の沙彌の為に、戒を授け終えて、楊州の入り江を出て長江を下り、11月1日、長江の下流、蘇州の黄泗浦(こうしほ)に到着した。大使藤原清河は、鑑真一行を副使以下の船に乗り移らせた。
 和上に相随う弟子は、揚州白塔寺の僧法進・泉州超功寺の僧曇静・台州開元寺の僧思託・揚州興雲寺の僧義静・衢州霊耀寺の僧法載・竇州開元寺の僧法成等14人。藤州通善寺の尼智首等3人、揚州優婆塞潘仙童・胡国の人宝最・如宝、崑崙国の人軍法力、膽波国(チャ. ンパ;Campa)の人善聴等、総て24人。
 その上、如来の肉舎利三千粒・功徳繍普集の変一舗・阿弥陀如来の像一鋪・彫白栴檀千手の像一躯・繍千手の像一鋪・救世観世音の像一鋪・薬師阿弥・陀弥勒菩薩の端像各々一躯・同障子・金字の大品経一部・金字の大集経一部・南本涅槃経一部四十巻・四分律一部六十巻・法励の師四分の疏(そ;書物)五本各々十巻・光統律師の四分の疏百廿紙・鏡中記二本・智首師の菩薩戒の疏五巻・霊渓釈子の菩薩戒の疏二巻、天台の止観法門・玄義・文句各々十巻、四教儀十二巻・行法華懺法一巻・少止観一巻・六妙門一巻・明了論一巻・定賓律師の飾宗義記九巻・補釈(しゃく)餝(しき)集記一巻・戒疏二本各々一巻・観音寺亮律師の義記二本十巻・南山宣律師の含注戒本一巻、及び疏行事鈔五本・羯磨疏等二本・懐素律師の戒本疏四巻・大覚律師の批記十四巻・音訓二本・比丘尼伝二本四巻・玄奘法師の西域記一本十二巻・終南山宣律師の関中創開戒壇図経一巻等、あわせて四十八部。
 及び、玉環水晶手幡四口・金珠‥欠字‥・菩薩子三斗・青蓮華廿口茎・玳瑁(たいまい;べっこう)の畳子八面・天竺の草履二両・王右軍の真蹟行書一帖・王献の真蹟行書三帖・天竺朱和等の雑体書五十帖・‥欠字‥・。水晶手幡以下は皆内裏に奉る。 又、麝香・沈香・甲香・蘇合香・龍腦香・安息香・松冷香・青木香・薫陸香等、総て6百余斤である。 又、呵梨勒・胡桝・阿魏・石密・沙糖等、5百余斤。 又、袈裟千條・裙杉千對・座具千・介情奇妙藥・蜂蜜十斛・甘蔗八十束・青錢十千等。それ以外に什物・灌頂の支具等があるが、これ以上、詳しく記すことはできない。
 これらを副使以下の船に分乗させ、この黄泗浦(こうしほ)で暫く順風を待った。
 大使は大和上らを、副使らの船に分散して乗船させ、終わって後、大使藤原清河以下皆で議論して言すには「現段階では、廣陵郡は、大和上が日本国に向かうことを覚知すれば、船を捜索するであろう。もし、探し出されれば、遣唐使のしたこととして無事には治まらない。また、風に漂よわされて唐域に還り着けば、我らの罪悪は免れず」と。そのために衆僧総て船を下りて留まった。
 11月10日の夜、副使大伴古麻呂が密かに大和上及び衆僧を招いて己が船に乗せた。そのことは、皆に知らさなかった。13日、普照は越州の余姚郡(よようぐん;浙江省寧波市)より回り追い着いた。吉備副使の船に乗った(普照は天平天宝9年、大和上と別れて嶺北、明州の阿育王寺に行っていた)。
 15日に順風が吹き、4船が同時に、蘇州を出帆した。一羽の雉あり。第一船の前に飛ぶ。これを凶事として、碇を下ろして留まり16日に発した。風が激しく舟を奔らせた。
 11月21日、第一・第二の両船が、阿児奈波嶋(沖縄島)に至った。そこは、多彌ガ島(種子島;種子島・屋久島と付近の島々を併せて多禰国;たねのくに)西南にあたる。吉備真備の第三の舟は、昨夜、既に同所に泊っていた。
 12月6日、南風起きて第一船は、再び出帆したが、岩に座礁し動けなくなった。 鑑真の乗る第二の船も、発して多禰に向かい、7日、益救嶋(屋久島)に至る。第三船も同日に益救嶋に着いた。
 第二の船は18日、益救より海上に出た。19日、風雨が大いに発して四方が定かでない。午時、しばしば浪の山頂に掬い上げられた。
 12月20日、午時に、薩摩国の阿多郡秋妻屋浦(あきめやのうら;鹿児島県坊津町秋目;薩摩半島西南部の漁村)に吹き寄せられようとした。その浦からさして離れていない海上に差し掛かると、暴風が俄に生じ波浪が山を連ねたようになり、天地が傾覆(けいふく;ひっくり返り)し、島山が回転しているように見え、重ねて空を暗く閉ざすつむじ風が、四方より吹き巻き、船上の皆は、正体を失くし倒れ臥した。
 官吏が名に立つ剣を投じて海龍に捧げるが、風波はいよいよ激しく、遂に黒雲が海上に涌き上がり、船上を覆い、龍王が雲に乗り、身近に置き供養してきた3千粒の釈迦如來の舍利を奪い海底に沈めた。
 漸く風も落ち着き、波が穏やかになり、辛うじて第6度目で日本の薩摩半島秋妻屋浦にたどり着いた。
 日本着岸時に大和上が浦に向かう船上の折々に、弟子の法進と思詫に「本願が適って、日の出る国の地に着いたというのに、伝法の教化の先導が、既に海中に沈んでしまった。又、迦葉摩騰(かしょうまとう;インドの僧、バラモン出身で、大乗の経律に通暁し、後漢の明帝に招請されて中国の洛陽に入った)が漢土に入り、僧会(康僧会;こう そうえ;? - 280年;中国・三国呉の時代、経典の翻訳に従事した僧)は呉国に入り、皆、舍利の威光を以て法を弘めた。今、その舍利を龍神に奪われてしまった。このままだと、海東の伝戒は空しくなる。それで各々が懇祈(こんき;神仏に向かい懇に深く祈る)すれば、再び感得(かんとく;信心が神仏に通じ、宿願が適う)があり、本願の成就が達成される」。鑑真は、涙を流し海上に向い、三寶八部龍王冥衆に対し祈請(きせい)し加護を願った。 法進も願を立て、若し海神が返してくれれば、伽藍を建て仏法を弘めると祈請した。現在の吉野の仏国寺がそれである。
 思詫は花厳法花等の敷部の大乗を転読し、諸人が、皆、功徳を修め、各々が修めた善行の福徳を、海龍に回向すると祈請した。
 魂からの祈念が冥護(みょうご;神仏の守りと加護)に通じ、霊験が次第に顕れて、海面の波が収まり水面が砥石のように平らになった。霊亀が舍利を背負って波に乗って遣って来た。和上の御前に進むと。忽然と老翁に変じ舍利を捧奉(ささげまつ)った。そして「我は三千大千世界(さんぜんだいせんせかい;仏教による誇張された宇宙論)龍首無邊莊嚴海雲威徳輪蓋龍王(三千世界龍王の主、輪蓋龍王;りんがいりゅうおう;竜王)なり。釈迦如来の在世には仏前に近侍し、舍利を擁護する誓を起請した。それが今、大和上が日本へ舍利を将来して、仏法を弘められようとする。そのまさに擁護が必要な時、まず海中から取り奉り、舍利守護の霊瑞を示した」という。 和上は深く敬重して、早く請願に従い、私が仏舍利を安置する場所を鎮護するよう老翁に垂示(すいじ;教え示した)し、未来の衆生に利益(りやく;恩恵や幸福)を与え給えと、青石(中国青石の種類は多いが、どれもが御影石によく似た石)に加持(祈祷)すると、老翁は約諾して青石に混入して形を隱した。
 果して唐招提寺建立の時、東辺に青色の大石が忽然と顕現して、霊相を新たに示した。これが唐招提寺を鎮守する竜神であった。

(九)鑑真、平城京に迎えられる
 天平勝宝5(753)年12月26日、鑑真の弟子延慶師が、盲目の大和尚の手を携えて、太宰府に入る。既に、大伴古麻呂は、鑑真らが築志(筑紫)の太宰府に着いた旨奏上していた。
 『続日本紀』には「天平勝宝6年正月7日。天皇は御東院で、五位以上と宴を開いた。勅があり、正五位下多治比真人家主と従五位下大伴宿禰麻呂2人を御前に召して、四位当色を特賜し、四位の列に在らしめた。即ち従四位下を授けた」。
 『続日本紀』には 「正月17日、大宰府が次のように上奏した。入唐の副使・従四位上吉備朝臣真備の船(第2船)が、去年(753年)12月7日に屋久島に来着しました。その後、屋久島より出発し、漂流して紀伊国の牟漏崎(室津)に着きました」。
 「天平勝宝6(754)年正月30日 副使大伴宿禰古麻呂が唐国から帰国した。古麻呂は『大唐の天宝12年、わが国の天平勝宝5(753)年正月に、諸蕃の百官が朝賀しました。天子は蓬莱殿の含元殿において朝賀を受けられました。(後略)』と奏上した」。
 太宰府からは、律令国家の行政機構により、船旅となるが、難波之津に到着したのが2月1日、これを聞き2月2日、唐僧崇道と大僧正・行基弟子法義らが迎慰(げいい;迎えて労わった)し供養した。3日には河内国に到着した。
 孝謙天皇は、勅して大納言正二位藤原朝臣仲摩呂を使わし、種々慰労した。 又、道璿(どうせん)律師が弟子の僧善談等を遣わして迎慰す。又、学識の髙い僧志忠・賢璟・霊福・暁貴等の30余人が迎え来て礼謁した。 平城京に入ったのは4日のことであった。孝謙の勅命で、正四位下の安宿王(あすかべおう;長屋王の5男)を遣わして羅城門の外で待ち、迎慰拝労し東大寺に迎え入れられ、漸く安息が適った。
 5日、唐の道璿律師、婆羅門菩薩僧正が来て慰問した。宰相左大臣橘諸兄を初め右大臣藤原豊成・大納言藤原仲麻呂以下の官人百余人来て礼拝して問訊(もんじん)、即ち合掌低頭し安否を尋ねた。
 後に、勅使正四位下吉備朝臣真備が来て勅を口伝した。「大徳和上遠くより滄波を渉りこの国に投じられた。誠に、朕が意に副う。その喜慰、喩うることなし。朕、この東大寺を造って20余年を経る。戒壇を立て、戒律を伝授せんと欲す。この心ありしより日夜忘れず、多くの大徳遠く来て戒を伝えること深く朕が心に誓(ちか)えり。今より以降、受戒伝律ひとえに大和上に任す」と。  
 3月17日 大宰府は使いを遣わして、入唐第一船のことを尋ね問わせたが、その回答は、第一船は帆を上げて奄美大島を指して出発したが、その到達場所は未だ不明と報告してきた。
 「4月7日 入唐廻使(遣唐使として入唐し、無事に帰国した者)・従四位上の大伴宿禰古麻呂と吉備朝臣真備にそれぞれ正四位下を授けた。また、判官・正六位上の大伴宿禰御笠と巨万(高麗;こま)朝臣大山にはそれぞれ従五位下を、この他使いの下にいる222人にも、位を授けたが各々差あり」
 「4月18日、大宰府は、入唐第4船の判官・正六位上の布勢朝臣人主(ふせのあそんひとぬし)らが薩摩国の石垣浦に来着し停泊しています。と報せてきた」 藤原清河と阿倍仲麻呂が乗った第一船は阿児奈波嶋(あこなはじま;沖縄)に辿り着きながら、逆風のため唐の領内であった安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。結局、藤原清河と仲麻呂一行は、天平勝宝7(755)年に長安に帰着した。
 この年、安禄山の乱が起こった。唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱であった。日本の朝廷は、第12次遣唐使の大使を派遣し、そのまま在唐している藤原清河を迎えようとしていた。渤海経由で迎えが到来するものの、唐の粛宗は行路が危険である事を理由に清河の帰国を認めなかった。
 それが天平宝字3(759)年1月、藤原清河を迎えるため高元度の遣唐使として派遣であり、また宝亀7(776)年の遣唐使への付託であった、が果たされなかった。
 阿倍仲麻呂も遂に帰国することはなかった。仲麻呂は、朝衡(ちょうこう)と中国風の名に改め、既に唐の太学(たいがく;唐の国立の中央大学)で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕えていたほどの秀才であった。唐朝は行路が危険である事を理由に、帰国を認めなかった。天平宝字5(761)年から神護景雲元(767)年の6年間、ハノイの安南都護府に在任し、天平神護2(766)年には安南節度使を授けられた。死後、潞州大都督(従二品)を贈位された。宝亀元(770)年1月、73歳で客死した。
 (同年、自らも律師となる)僧都良弁に勅があり、総ての臨壇の大徳の名を録して禁内に差し出させた。日を経ずして勅により鑑真に伝燈大法師位が授けられた。その年の4月、初めて盧遮那殿の前に立ち、戒壇を立てた。天皇が初めて壇に登って、鑑真による菩薩戒を受けた。次に、皇太后、皇太子が又壇に登り戒を受け、求め来る沙彌修のために440余人の戒を授けた。又、旧戒の大僧霊祐・賢璟・志忠・善頂・道緑・平徳・忍基・善謝・行潜・行忍等の80余人の僧は旧戒を捨てて大和上授けるところの戒を受けた。後、大仏殿の西に於いて、別に戒壇院を作る。 即ち天皇受戒の壇の土を移して、これを築いた。
 大和尚、天宝2載より、伝戒の為めに、5度にわたって準備し、渡海で漂流し艱難辛苦を重ねたが、本願を退けることなく第6度目に日本へ越え渡ってきた。その間、36人が無常にも去っていった。退心の道俗200余人、ただ大和尚・学問僧普照・天台僧思託のみ、最初から終わりまでの6度、12年を経過して、遂に本願を果し、日本に来て聖戒を伝えた。済度の慈悲と宿縁は深厚にして身命を惜まず、得度する事、極めて多かった。

(十)鑑真遷化
 時に、四方より来て戒律を学ぶ者がいるが、仏・法・僧の三宝を敬うことなく多くが退還する。この事が、天聴に漏れ聞こえた。天平宝字元(757)年11月23日、勅により備前の国水田百町を施した。大和尚は、この田を以て、伽藍を建てんと願った。その時、勅旨があり、大和尚に園地(畠地)一画を施した。元は、今は亡き一品新田部親王(にいたべしんのう;天武天皇の第7皇子)の旧宅であった。
 普照と思託は、大和上に「この地をもって伽藍と為し、長く四分律蔵法・法励の四分律疏・鎮道場・餝宗義記・宣律師の鈔などを伝授し、その持戒の力をもって、国家を護持する寺を築きましょう」と請うた。
 鑑真大和上は、中納言従三位氷上真人の招請の願いを受け、その家宅の予定地を訪れた。その土を舐めて、初めて寺を立つるべき地と知った。鑑真は弟子の法智に「これ福地なり。伽藍を立つるべき」と告げた。
 大和上は「大いに好(よ)し」と認め、寺を建立させた。天平宝字3(759)年8月1日、私的に唐招提寺の名を立てた。後に、寺号を書した官額が下賜された。これで唐招提寺の名も許され、公認の寺と定まられた。また、この日をもって善俊師に願って、仏典の疏記等を講じた。これが今に残る離愁唐招提寺であった。
 今、遂に後世に伝わる寺が成った。明らかに目の当たりにする先見の妙であった。大和上は、中国で仏法が体系化される初期段階に誕生し、年少より仏に仕える環境にあった。経では「如来は処々に現れ、人々が悟りの境地に導く済度を行った。汝等もまた如来に学び、広く得度するよう」に命じた。
 既に、鑑真大和上による教化で、得度する人々は4万を超えた。上記に、おおよそ述べる講会(こうえ)の全体の回数からも、それが知られた。
 唐の道璿律師は大和上の門人思託に願った。仏の教えを承るには、その基本となるのが教学である。道璿が弟子達に、漢語に疎い者には、励の疏(しょ;経籍の注釈書)と鎮国記を学ばせ、果報よき仏の道に導きたい。 これを受けて、思託は、大安寺にある道璿の唐院(入唐僧の住房)で、忍基等のために4~5年の間、研磨すること数回に及んだ。
 やがて天平宝字3(759)年、忍基が東大寺の唐院において疏記を講じ、僧善俊は唐招提寺において励の疏と鎮国記を講じた。僧忠慧も近江寺(きんこうじ)において件の疏記を講じ、僧恵新は大安寺の塔院において件の疏記を講じ、僧常ぎは大安寺において件の疏記を講じ、僧真法は興福寺において件の疏記を講じた。
 これによりこの以降、日本の律儀は徐々に高峻に整備され師弟相伝えて、寰宇(かんう;世の中)に遍く行き渡った。仏がのたまうように、我が総ての弟子が、巡り回って之を行なえば、如来が常在不滅に存在することとなる。「一燈を百千燈に燃すが如し。瞑(くら)き者は皆な、明明として絶へず」。
 天平宝字7(763)年の春、弟子の僧忍基は、講堂の棟梁(棟と梁)が摧(くだ)け折れるのを見た。大和上が遷化する予兆と知り秘かに驚懼する。総ての弟子を率いて、大和上の肖像を作った。
 この年5月6日、鑑真は結跏趺坐し西に面して遷化した。春秋76、遷化して3日、頭頂は依然として暖かかった。そのため暫くは納棺しなかった。 闍維(じゃい;荼毘;だび)したところ香気が山を覆った。平生、かつて僧の思託に「我、若し終巳(しゅうじ)すれば、願わくは座して死せん。汝我がために戒壇院において別に影堂を立つべし。旧住の坊は僧に与えて住せしめよ」と告げていた。
 千臂経(せんぴきょう)に記される「終わりに臨んで端座し禅定(涅槃の境地)に入るが如し」、当に、この人、既に初地(菩薩が修行しなければならない十地;じゆうじ;の第一位、歓喜地)に入るを知る。これを以って、その験(しるし)と知るが、聖者と凡夫(聖凡は仏語)は測り難い。
 同8年、日本国の使いを、唐の楊州の諸寺に遣わした。皆、この大和上の凶聞に、総て喪服を着け東に向かって哀を挙げること3日に及んだ。多くの人々が龍興寺に会して大斉会を設(しつら)えた。その龍興寺はこれより先、ほぼ全焼したが、大和上が、昔、住いしていた院坊は唯一焼損を免れていた。これも、また戒徳(戒律を守ることによって得られる功徳や福運)の余慶であった。
 法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記一巻 宝亀十年歳次(779年)二月八日己卯撰

(十一)『続日本紀』からの補足説明
 唐の法律では、新羅や日本の留学僧で、9年間、故国に戻らない者は、唐の戸籍に編入され納税の義務が生じた。栄叡・普照は、唐に留まる事10年目にして、揚州大明寺の鑑真を訪ねている。それ以前に、既に、鑑真の弟子道抗ら3人の中国僧と朝鮮僧如海、ならびに日本留学僧玄朗・玄法を伴って早期帰国を決心していた。
 当時、唐の国法では、私事の出国は罰せられていたので、栄叡・普照は道抗の紹介で時の宰相李林甫に面会し、日本への渡航についての便宜を願った。 林甫は「表むきは天台山国清寺へ奉納のため、海路をとることにすれば、うまく風を受け日本に渡航できれば幸、万一、中国の沿岸に吹き戻されれば、天台山にいくことになっていたのであるから咎められはしない」と示唆した。
 天平勝宝2(750)年、日本政府は久しぶりに遣唐使を派遣することになった。藤原北家の祖藤原房前の4男の藤原清河が大使となり、大伴古麻呂が副使に任命された『続日本紀』。
 藤原清河遣唐使一行は、翌年難波津を出帆し6月頃には、東シナ海を横断して唐に渡り秋には長安に入っていたようだ。 その間、日本へ戻ろうとしていた栄叡・普照や鑑真に好意的であった宰相李林甫が死去した。 前述の「続日本紀」鑑真伝によれば、藤原清河らが唐に到着すると、当時鑑真と離れて明州にいた普照が、遣唐使らに面会し、鑑真の渡日への強い意志と5回に及ぶ日本渡航の失敗を語り、清河らを感動させたようだ。 ここで鑑真の渡日問題は、日唐間の公式の外交問題として取り上げられようだ。大使らは、形式的な玄宗皇帝引見後に、鑑真ならびに弟子の律僧ら5人の名簿を天子に提出して日本に招きたいと交渉した。これに対して玄宗は道士を連れて行くことを要求した。
 しかし日本では、既に卑弥呼以来の道教信仰は殆ど消滅し、これを受け入れる素地がなかった。それで、藤原清河は、同行者に道教を学ばせるために残留させることにした。同時に鑑真らを日本に公式招待する要請を撤回した。
 天宝12載(753年)、清河ら遣唐大使らは揚州に赴き、鑑真に交渉の経過を説明し、日本へ密航してくれるよう依頼して承諾を得た。その帰途につく遣唐使船に、長きに亘り唐に仕えた阿倍仲麻呂もこのとき乗船を願い受け入れられている。
 ところが、一旦、鑑真たちを乗船させた後、藤原清河ら主幹部が豹変した。もし遣唐使船が、帰国に失敗して唐に吹き戻されれば、鑑真ら密航者らが発見され、彼らを乗船させた日本国の外交使節の行為が大問題となると恐懼し、鑑真らを下船させた。
 この大使らの決断を恥、副使大伴古麻呂は反発し、独断で密かに鑑真らを、副使船に乗せて蘇州を出帆した。
 栄叡と普照等が遣唐大使・多治比真人広成に随って唐国に留学したことについて『続日本紀』では次のように記している。
 天平4(732)年8月17日、従四位上の多治比真人広成をもって遣唐大使と為す。従五位下の中臣朝臣名代を副使とし、判官は4人、録事は4人。
 9月4日、近江・丹波・播磨・備中などの国に使いを遣わして、遣唐使のための船 4艘を造らしむ。
 天平5(733)年3月21日、遣唐大使の従四位上の多治比真人広成らが、聖武天皇に拝謁した。
 同月26日、多治比広成は、天皇に別離の拝謁をした。聖武天皇は節刀(配下の生殺与奪の権を与える印)を授けられた。
 4月3日、遣唐の4船が難波の津より進発した。

 また道璿(どうせん)律師を、遣唐副使の中臣名代の船に乗せて、先に日本に向った後のことについて『続日本紀』には次のように記されている。
 天平6(734)年11月20日、唐大使で従四位上の多治比真人広成らが、多禰嶋(種子島)に来着した。
 天平7年3月10日、天平5年に入唐した大使で従四位上の多治比真人広成らが、唐国より戻り節刀を返上した。
 3月25日、遣唐使一行が聖武天皇に拝謁した。
 4月26日、従四位上の多治比真人広成に正四位上を授けた。
 4月26日、入唐留学生で従八位下の下道朝臣真備が、唐礼百三十巻・太衍暦経一巻・太衍暦立成十二巻・測影鉄尺一枚・律管一部・銅律管一部・鉄如方響写律管声十二条・楽書要録十巻・絃纏漆角弓一張・馬上飲水漆角弓一張・露面漆四節角弓一張・射甲箭二十隻・平射箭十隻を献上した。
 5月5日、聖武天皇は北の松林苑に出られて、騎射や入唐廻使(遣唐使として入唐し、無事に帰国した者)及び唐人が、唐国や新羅の楽を演奏し、槍を持つ舞などを御覧になった。
 5月7日、入唐使の儒教の留学生・秦大麻呂(はたのおおまろ)が『問答6巻(儒教に関す本?)』を献上した。  天平8(736)年2月7日、入唐学問僧の玄昉法師に、封戸100戸・田10町・扶翼(身のまわりを世話する)童子8人を、律師の道慈法師に、扶翼童子6人を施し与えた。  
 8月23日、入唐副使従五位上中臣朝臣名代らが、率唐人3人と波斯人(ペルシャ人)1人を連れて聖武天皇に拝謁した。
 10月2日、聖武天皇は唐僧の道璿(どうせん)・婆羅門僧菩提らに時服を施した。
 11月3日、聖武天皇は朝殿に臨御し、詔があって、入唐副使・従五位上中臣朝臣名代に従四位下を、故判官・正六位上の田口朝臣養年富と紀朝臣馬主に従五位下を、准判官・従七位下大伴宿禰首名・唐人の皇甫東朝・波斯人李密翳(りみつえい)らに、それぞれの身分に応じて位階を授けた。  
 李密翳は、『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人である。中国では、シルクロードを通じた交易が盛んになるに従い、漢の時代からイラン文化の流入が始まり、隋・唐に至っては、景教・ゾロアスター教やペルシャ系文物や文化、胡姫・胡服・胡帽・胡粧・胡楽・胡舞・胡酒・胡食など、衣食住のあらゆる分野に、イラン文化が全盛を極めた。
 当時、交易などの目的で長安に居住していた胡人、即ちペルシャ人や中央アジアのソグディアナ地域のイラン系住民のソグド人などは、数千とも一万ともいわれている。
 「安史の乱」で玄宗皇帝に反乱を起こしたことで知られる節度使・安禄山は、ザラフシャン川下流域に栄えたオアシス都市・安国(ブハラ)出身のソグド人であった。禄山は、彼の名「ロクシャン」を写したものだといわれている。
 天平9(737)年8月19日、正四位上多治比真人広成を参議となす。
 9月26日、正四位上多治比真人広成を中納言となす。(中略)両京(平城京の左右京)・四畿・二監の僧正以下、沙弥尼以上、総て2,376人に綿と塩を、それぞれ差はあるが施しがあった。
 平城京は、中央に南北に朱雀大路を通して右京と左京に分けた。和泉国が河内国より分離される前は、四畿と呼び、京に近い国々、大倭(大和)・河内・難波・山背(城)の四国の呼称であった。また奈良時代、離宮が置かれた、太政官直轄の畿内の特別行政区域、芳野監・和泉監の二監があった。

(十二)続日本紀 巻第十三 聖武天皇(738年~740年)  
 天平11(739)年4月7日、中納言従三位多治比真人広成が薨じた。左大臣正二位嶋之の第5子であった。
 10月27日、入唐使の判官外従五位下平郡朝臣広成並びに渤海国の使節等が入京した。
 11月3日、平郡朝臣広成等が聖武天皇に拝謁した。
 初めは、平郡広成は天平5(733)年、遣唐大使多治比真人広成に随い入唐した。
 翌6年10月、使命を終えて帰国する際、4船が同時に蘇州より海洋に入った。悪風が忽然と発生し、彼我互いに見失った。多治広成の船には、115人が乗船し、崑崙国(ベトナム中部沿海地方にあったチャンパ王国)に漂着した。
 ここで賊兵が来襲して囲まれ、遂に捕縛され、船人は或いは殺され、或いは走り逃げた。残った者殆ど、90余人は、瘴(熱帯性の風土病)に罹り死亡した。
 広成等4人は、僅かに死を免れ、崑崙王に謁見した。僅か10合程度の食料(遣唐使船の乗組員は、1日に0.8升=8合と計算されていた)が与えられ、難所に保護された。持て余され冷遇されたようだ。
 天平7年になって、唐国の欽州の人で崑崙を熟知し者がいて彼らの所に来た。都合よく船を盗み乗船し、唐国に戻ることができた。日本の留学生の阿倍仲麻呂に会い、便奏(奏上しる際の公式様文書の一つ)を願い入朝ができた。
 渤海路から帰朝することを請願した。玄宗皇帝はこれを許し、船と食料を給い使者として送り出した。
 天平10年3月、登州(山東半島東部に位置する港湾都市、現在は煙台市)より海洋に出た。5月、渤海の海域に達すると、渤海王・大欽茂の遣使にたまたま遭遇した。
 その遣使は我が朝廷に聘問する使命を課されていた。即刻、同時に荒波の中を渡海した。
 渤海の一船が、浪に襲われ転覆し、大使の胥要徳ら40人が水没死した。広成等は、無事であった遣使たちを連れ、出羽国へ着到した。 
 天平11(739)年12月10日、渤海使の己珎蒙等が、聖武天皇に拝謁した。天皇に渤海王欽茂の上奏文書と産物を献上した。
 その書状には「欽茂が申し上げます。山河は遥遠にして途絶し、国土から遥々として、遠く佇望(ちよばう)するばかりです。
 聞こえる風説に深く考えをめぐらせれば、ひたすら欽仰(尊敬し仰ぐ)の思いが募ります。謹みて考えてみれば、天皇の英知・至徳は遠くに行き渡り淀みがなく、累世を重ねて輝き、その恩沢は万民に及んでいます。
 欽茂は、忝くも祖業を継ぎ、乱れた国土を治めました。道義は遍(あまね)く行き渡り情は深く、事毎に隣国との友好をはかっています。今、日本の遣唐使多治広成等は、風潮が禍し帰港ができなくなり、漂着し渤海国にたどり着きました。ことごとく手厚くもてなし、来たる春を待って帰国させようとしましたが、帰国の使節らは執拗に帰国を迫ります。その訴えは至極重く、隣国同士の義は軽ざられません。前もって渡海に必要な資材を備えていましたので、直ちに使節の発遣となりました。
 それにより若忽州都の督胥・要徳等を遣使としました。広大な領国の日本に送らせます。合わせて大虫皮(大虫は巨大な動物の意味であれば虎皮)・羆(ひぐま)皮各7張・豹皮6張・人参30斤・蜂蜜3石を進上します。日本に着きましたら調べて、納めて下さい」と記されていた。
 12月21日、外従五位下平郡朝臣広成に正五位上が授けられた。水手以上にも、各々の身分に応じて階級が与えられた。

(十三)続日本記 巻第十八(孝謙天皇750年~752年)
 天平勝宝2(750)年 9月24日、従四位下藤原朝臣清河を大使と為し、従五位下大伴宿禰古麻呂を副使と為し、判官・主典、各4人を遣唐使に任じた。
 天平勝宝3年 2月17日、遣唐使の雑色人(ぞうしきにん;各種の業務担当の下級役人や、特に特定の役所に置かれた「品部」「雑戸」を指した)113人に、位を叙することありそれぞれ差ある。
 11月7日、従四位上吉備朝臣真備を入唐副使と為す。
 天平勝宝4(752)年 3月3日、遣唐使等が孝謙天皇に拝謁した。 閏3月9日、遣唐使副使以上を内裏に召す。詔して節刀を賜う。授大使従四位上藤原朝臣清河に正四位下を、副使従五位上大伴宿禰古麻呂に従四位上を、留学生無位藤原朝臣刷雄に従五位下を授けた。
 4月9日、盧舍那大仏像が完成し開眼式を始めた。この日、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后は、そろって東大寺に行幸し、天皇自ら文武百官を率いて、大仏開眼供養会が挙行された。その儀は元日節会(せちえ)と同一で、盛大であった。
 五位以上は礼服を、六位以下は通常の朝服を着て参加した。
 僧一万人を招請した。それまでに雅楽寮および諸寺の種々の楽人がすべて来集した。また皇族・官人・諸氏族らによる五節の舞・久米舞・楯伏舞(楯、刀などを持って舞う)・踏歌(あらればしり)・袍袴(ほうこ;表着である袍と内側の脚衣である袴との組合せ服)などによる歌舞があり、東西に分かれて歌い、庭にそれぞれ別れて演奏した。
 その所作は並はずれて優れ、一々書きつくせないほどであった。
 仏法東漸以来、これほど盛大な斎会(さいえ)はかつてなかった。」この夕、孝謙天皇は、大納言藤原朝臣仲麻呂の自邸・田村第へ還御した。このため田村第が御在所となった。
 奈良市四条大路二坊の東半八坪分、それは長屋王邸の2倍はあったとみられる古代の邸宅遺構が発掘された。田村第の中枢部とみられている。整然と並ぶ一辺1.5m程の巨大な穴は、邸宅建造の柱群を支える礎石工事址で、これ程、入念な地盤改良工事は、その当時、平城京でも諸門や朝堂などに限られていた。
 昭和57(1,982)年、その大規模な礎石を伴う大型建物2棟分が発掘された。東西に構えた楼からは、平城京の内裏が観望され、反対側の南門は平城京を守るかのように櫓造りとなっていた。
 天平勝宝9/天平宝字元年の757年、孝謙天皇が田村第を内裏のように活用したため、朝政の場となり、田村宮(たむらにみや)とも呼ばれた。
 ただ孝謙天皇が平城宮に戻れなかった理由には、東大寺大仏造立と併せて、東の大極殿・朝堂院が掘立柱建造物から、礎石上の建物に改造され、同時に内裏の改造も行われたためとみられている。
 天平勝宝年間(749~757年)には、遣唐使も派遣されている。その財政能力には、目を見張るものがあるが、7世紀末以来、律令国家として蓄積してきた成果の表れであろうか。

(十四)続日本紀 巻第十九(孝謙天皇・西暦753年~756年)
 天平勝宝6(754)年 正月16日、入唐副使・従四位上の大伴宿禰古麻呂が帰国した。唐僧の鑑真と法進ら8人が古麻呂に随って来朝した。唐僧鑑真と弟子の法進等8人を伴い帰朝した。  
 正月17日、大宰府が「入唐副使従四位上吉備朝臣真備の乗船が、去年12月7日、益久嶋(屋久島)に来着しました。その後、益久嶋より進発したが、漂流して紀伊国の牟漏崎(室津)に着きました」と上奏してきた。
 正月30日、副使大伴宿禰古麻呂が唐国より戻って「大唐天宝12載(753年)、正月元旦、唐の官僚百官と諸国の使者が、蓬莱宮の含元殿(がんげんでん)で天子拝賀の儀式が執り行われた。 古麻呂はその際の席次に反発し、古(いにしえ)より今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢していた。しかるに今、新羅の使者は東畔の第一席で、二席が大食国(たいじきこく;タージ;アッパース朝)である。日本は西畔で、第一席の吐蕃(とばん;チベットにあった統一王国)の下座、第二席にある。新羅は、日本より上席にあたる。
 我日本の使節は新羅より下に在る。理(ことわり)に適わない、と主張した。 その時、呉懐実将軍は、現在の席次に納得しない古麻呂の様子を見て、直ちに新羅の使者を伴い、西の組の第一席の吐蕃(とばん;チベットにあった統一王国)の下座につけた。
 日本の使者古麻呂は東の組の第一席、大食国の上座につきました」と奏上した。
 3月17、大宰府は「使を遣わし入唐第一船に関して訪ない尋ねた所、その消息は、第一船は、帆を上げて奄美嶋(奄美大島)へ向かったが、未だ到着場所は知られていない、と回答がありました」と伝えてきた。
 4月7日、入唐廻使(遣唐使として入唐し、無事に帰国した者)従四位上大伴宿禰古麻呂吉備朝臣真備に正四位下を授けた。判官正六位上大伴宿禰御笠と巨万朝臣大山には従五位下を授けた。その他使者の下で仕えていた222人にも、それぞれの身分に応じて位を授けた。
 4月18日、大宰府から「唐第四船の判官正六位上布勢朝臣人主らが、薩麻国石籬浦(薩摩国石垣浦)に来泊した」と報せが入った。第四船は、昨年、出帆後、東シナ海で火災を起こし、翌年になって準備を整え終わり、漸くこの4月に薩麻国に到着した。布勢人主は、天平7(735)年に南海諸島の島々に、漂着船の進路指針となるため、島名や近隣の島へ行程を記した立札が立てられていたが、既に朽ち果てていたと報告した。翌、天平勝宝7年に、修復されるようになった。
 藤原清河と阿倍の仲麻呂が乗った第一船は阿児奈波嶋(沖縄)に到りながらその後、安南にまで流され、苦労の末、755年に唐に戻った。藤原清河は、仲麻呂と同様、玄宗皇帝に重用され、唐名を河清(かせい)と名乗り、天平宝字3(759)年に、彼を迎えるための遣唐船が派遣されたが、安史の乱の最中であったため粛宗から許可が下りず、仲麻呂と同様、帰国することはなかった。
  続日本紀・巻第二十一 孝謙上皇は次のように鑑真の偉業を称え慰労している。
  天平宝字2(758)年8月1日 詔して言う「大僧都鑑真和上の戒行ますます潔く、白頭になっても変わらず。遠く青々とした大海原を渡り我が聖朝(日本)に落ち着かれた。号して大和上といわれ恭敬して供養し、政事の多事煩多に敢へて老を労さざるよう、僧綱の任を解いた。諸寺の僧尼が戒律を学ぼうとするならば参集させ、皆付き従い習わせよ」と。
 又、孝謙天皇は勅により「紫微内相藤原朝臣仲麻呂は国の功勲は既に高い。然るに猶、報効が未だ行われず、更なる名字も加わっていない。参議・八省卿・博士等と諮り、古例から正論を導き奏聞せよ。根拠が明らかでない空言であってはならない。みだりに汗を流さず叡聴叡覧したいものだ」。
 続日本紀 巻第二十四 鑑真の死を悼んで続日本紀は次のように記録している。  
 天平宝字7(763)年5月6日、大和上鑑真が物故した。和上は楊州竜興寺の徳行の高い高僧である。博(ひろ)く経蔵と論蔵を渉典(しょうてん;詳しく研究)し、戒律に極めて詳しく、江淮の間(揚子江と淮水の間)、ただ一人の教化主であった。天宝2載(742年)、留学僧栄叡・業行(普照)らが、西方に居られる和上に願った。「仏法は東流して本国日本に達し、その教がありますが、それを伝授する人がいません。
 そのための願いとして、和上に東遊し教化を振起していただきたいと、その重要性を懇請し、その意見をお聞きしたいと願った。
 やがて楊州で船を買い海に乗り出した。その航海中、風害に遭い漂流した。船は波に打ち壊されたが、同舟の人々や大和上らが、一心に念仏人々らは皆このお蔭で死を免れた。
 天宝7年(天平20年)、再度、渡海する。またも風浪に遭い、日南(ベトナム北部)に漂着した。その間、栄叡が物故した。
 やがて和上は悲泣と数々の試練が重なり失明した。
 天平勝宝4(752)年、日本国の遣唐使が丁度、唐を聘問した。業行(普照)が鑑真に宿願を説き明かした。ついに弟子24人も随い、副使大伴宿禰古麻呂の船に身を寄せて乗船し帰朝した。
 鑑真は東大寺で安んじてもらい供養した。この時、勅があって、一切の経論を校正することになったが、しばしば誤字があり諸本も皆同じであった。これを正せる者がいなかった。和上は諳誦していたため、多くの箇所に雌黄(しおう;修正液の材料)が塗られた。
 又、諸々の薬物に付された令名の真偽を、和上は一一鼻で嗅ぎ別け、一つとして誤りがなかった。
 聖武太上天皇は師により受戒された。光明皇太后が病気になったときも、治癒に有効な医薬を進めた。大僧正を授位された。俄に僧綱としての務めが煩雑となったため。改めて大和上の称号を授け、備前国の水田100町と新田部親王の旧宅を施し戒院とした。
 今の唐招提寺がこれである。和上は死ぬ日を予知していた。その時に到って、端座してやすらかに遷化した。ときに76才であった。

(十五)鑑真と関わった人々  
 下道真備は、天平18(746)年は、吉備朝臣の姓を賜与された。孝謙天皇即位後の天平勝宝2(750)年1月に、筑前守次いで肥前守に左遷された。藤原広嗣の怨霊を鎮めるためと言われている。
同年9月、遣唐使が任命された。大使が藤原清河(きよかわ)で、藤原房前の4男で、参議・従四位下であった。副使は大伴古麻呂で、大伴旅人の甥・家持の従兄弟・従五位下であった。 翌天平勝宝3年には、吉備真備も、その経験を買われ遣唐副使となり、翌天平勝宝4年に再度入唐し、阿倍仲麻呂と再会した。  
 この天平勝宝の遣唐使が、鑑真を伴って帰国した。帰途4隻の船に便乗し、唐の蘇州を出帆したのが天平勝宝5(753)年11月16日であった。  
 先の天平14(742)年、遣唐使の一員として日本から唐に渡った僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が、「戒律」を授戒する伝戒師として来日を懇請した。「戒律」とは、各自が自分で心に誓う事を「戒」、僧侶同士が互いに誓う教団の規則を「律」という。仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う授戒が必要であった。僧侶は納税の義務が免除されたことから、重税に苦しむ庶民は勝手に僧侶となり、奈良には私度僧が多くなった。そのため、聖武天皇は指導的な伝戒師となりえる僧侶を捜していた。  
 唐では玄宗の治世の前半にあたり、「開元の治」と呼ばれ唐の絶頂期である。その開元21(733)年「唐国の諸寺の三蔵(経・律・論の三蔵に通じた僧)、大徳(立派な徳のある人)は皆戒律を以って入道の正門とする。若し戒を持たざる者あれば、僧中に連ならず」と定めた。
 唐では、僧を志す者は、10人以上の僧の前で「律」を誓う儀式『授戒』を経て、正式に僧として認められた。この制度を朝廷は日本に導入しようとした。国家から公認された授戒師から受戒された者だけを僧とすれば、一気に僧の数が激減し増収に繋がり、しかも僧侶の質も向上すると考えた。
  国内には正式な授戒の儀式を知る者がいなかった。そこで興福寺の2名の僧侶、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)が、舎人親王より「遣唐使船で渡航し、授戒を詳しく知る名僧を連れて来るべし」と命じられた。
 天平5(733)年4月の第9次遣唐使丹治比広成に従い入唐した。伝戒師の招請のため生死を賭して努力した。まず洛陽大福先寺で具足戒をうけ、道璿(どうせん)に日本への渡航を勧誘し、さらに栄叡・普照と共に留学求法すること10年、天平14 (742)年に揚州大明寺に鑑真和上を訪ね、鑑真一行の渡航を懇願した。
 道璿は唐代中期の律僧で、姓は衛、河南許州の人であった。洛陽の大福先寺で定賓について律を、嵩山(すうざん)の普寂より禅をうける。
 入唐した栄叡らによる戒師招請に応じ、天平8(736)年、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)らと共に、日本に渡り奈良大安寺の西唐院に入った。
 天平勝宝3(751)年、聖武天皇の勅によって律師となり、鑑真来朝の先駆として、東大寺の大仏開眼の導師となるが、晩年に吉野の比蘇山に退き、『註菩薩戒経』を著す。
 来日に際して道璿は、『華厳経』の章疏(しょうしょ;仏典の教論と注釈)をもたらし、日本における華厳の初伝として知られるが、禅の第二伝でもあった。
 日本に最初に禅を紹介した人物は、飛鳥時代の僧道昭(629~700年)とするのが通説である。道昭は飛鳥時代の元興寺(飛鳥寺)の僧であった。彼は653年、学問僧として定恵(藤原鎌足の長男)と共に唐に渡った。唐では玄奘に師事し法相宗を学び日本に伝えた。道昭は日本法相宗の開祖でもある。しかも唐で玄奘に師事した後、玄奘の薦めで相州隆化寺の慧満禅師に禅を学んだと伝えられる。 慧満禅師は達磨の弟子と伝えられる。慧満禅師は中期大乗仏教経典の一つ4卷『楞伽経(りょうがきょう)』に基づく禅を提唱した。
 かくして栄叡と普照の切なる願いが適い、「是れ法のための事なり。何ぞ身命を惜しまんや。諸人去(ゆ)かざれば、我れ即ち去くのみ」と日本への渡海を寧ろ懇望する。時に鑑真は54歳であった。
 かつて長屋王が議政官の首班であった時代に、中国の僧侶に袈裟千枚を寄進した。その袈裟の縁に「風月同天 山川異域(山川域を異にするが、風月天は同じである」の詩句が刺繍されていた。これには仏子同士として、共に来縁を結ばんとする意思が籠められていた。
  鑑真は、長屋王の「風月同天 山川異域」の句から、未熟ではあるが「日本は仏教伝播の有縁の地」と認めたようだ。 鑑真が渡日を決意した唐の時代は、大きく初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分されるが、この唐の時代は、中国史上でも最も華やかな玄宗皇帝が強健な時代であった。その中でも鑑真が中国にいた時期は、国際色豊かで、自信に満ち溢れた盛唐期であった。唐の法律では「海外渡航禁止」が明記されていた。例えば、日本人が中国に行った場合、婚姻は自由、しかも帰国も自由であった。但し、結婚した中国人の妻の渡航は禁じられた。
 玄奘三蔵(げんしょうさんぞう)と鑑真はその点で非常に似ている。玄奘三蔵も法律違反を犯して、一人で砂漠を渡り天竺に辿り着く。
 鑑真は渡海中に最愛の弟子二人を失っている。一人は日本人の栄叡、もう一人は中国人の祥彦(しょうげん)という一番弟子であった。鑑真が失明したのは、船の難破により、漂流先の厳しい気候風土に晒された肉体的な打撃ばかりでなく、国禁下のストレスと弟子達の喪失による心痛と自責が深く関わっていた。
 初の渡海企図は翌天平15(743)年の夏、上海南方の霊峰・天台山に参詣するとして日本へ舵を切る作戦を立てるが、渡航をを嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽りの密告をしたため、栄叡と普照は検挙され4ヵ月を獄中で過ごし、鑑真は留め置かれた。
 2回目の試みは744年1月、頑丈な軍用船を購入し、仏像や仏典を山積し、彫工・石工など85人の技術者・職人を乗せるなど周到な準備の上で出航した。激しい暴風雨で遭難、船体を修理し再び外洋に挑むが座礁した。一旦、明州(現寧波)の余姚へ戻らざるを得なくなった。 再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者達の密告により、栄叡が再び投獄され失敗した。
 鑑真は栄叡を助ける為に奔走し、栄叡は「病死扱い」で出獄し救出された。3回目の失敗であった。
 第4回も744年で、さすがに江蘇・浙江からの出航は監視が厳しく困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て南下した。しかし、この時も鑑真の弟子の霊佑(りょうゆう)が、鑑真の辛労を看過できず、渡航阻止するため官吏に密告した。鑑真は官憲に捉えられ揚州まで送還される。一方、栄叡と普照は逃亡し南京以西の内陸部に潜伏した。
 第5回は748年、鑑真60歳、この年、天平20年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。切に来朝を懇願すると、鑑真も渡海に意欲を示した。当然、栄叡たちは依然として厳しい監視下にあったが、隙をついて6月に出航に成功した。舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方のベトナム沖、海南島(現在の三亜市)へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年間滞留し、遠く海南島に数々の医薬の知識を伝えた。
 しかし、揚州に引き返す途中で、過酷な旅と南方の酷暑で体力を消耗した栄叡が端州の地で他界する。遣唐使船で大陸に来て15年、栄叡はついに祖国の地を踏めなかった。祥彦も、その前後に病没した。二人の愛弟子の相次ぐ死に直面した鑑真は、悲嘆のあまり広州から天竺へ向かおうとした。周囲に慰留され漸く止まったという。鑑真は彼らの死を痛く悲しむ最中、鑑真自身もまた、間もなく眼病を患い失明した。
 最初、鑑真が弟子と共に、日本に渡航した時は、日本人は4人いた。最初の失敗で2人が離脱した。鑑真の中国からの出航は密出国であり、事実、鑑真は何度も逮捕された。そして5回目の時に、今度は先に触れたように、最愛の弟子栄叡を失った。これで日本人の留学生で残るは一人、普照だけであったが、栄叡を失う喪失感に堪えられず、韶州で一行から離脱して、独り明州へ向かった。
 天平勝宝3(751)年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使・藤原清河らに渡日を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。 それでも鑑真は、弟子達や宗教界を裏切り、法令に違反し船に乗り込んだ。遣唐大使藤原清河が鑑真を招聘した時に、鑑真は「共に行こう」と、儒学者であり、唐代一流の文人でもあった蕭穎士(しょうえいし)を誘った。彼は病気を口実に渡海を断った。
 藤原清河は、その遣唐使船に、鑑真一行を無事迎い入れたが、直ぐに出発できるわけではない。当時、遣唐船が出港するには、季節風が必要で、風待ちに多くの日数を要した。やがて、その間の緊張に耐えられず、官憲に露見する虞があるとして、4艘の責任者が集まり「鑑真を船から降ろす」という結論に達した。その時、鑑真は、荷物などすべて降ろされられるという惨い仕打ちを受けた。その時の副使吉備真備の判断は明らかではない。
 一方の副使の大伴古麻呂は、その措置を恥、密かに鑑真を乗船させた。天平15(743)年夏の最初の密航計画の失敗から9年を経過し、しかも6回目であった。この天平勝宝の遣唐使船は、その来日に際し、鑑真と共に難破しながらも、成功させた過程なども含めて歴史的意義は髙い。
 天平勝宝5(753)年、天平勝宝の遣唐使は帰途4隻の船に分乗した。11月17日に遣唐使船が蘇州の黄泗浦を出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流して日本に到着できなかった。古麻呂の副使船は持ちこたえ、途中で「阿児奈波(あこなわ;沖縄)」に漂着したが、12月20日に薩摩坊津の秋目付近の「秋妻屋浦(あきめやのうら)」に無事到着した。既に鑑真は65歳に達し、既に失明していた。
 鑑真は、太宰府を経由して難波から平城京に入った。聖武太上天皇らに授戒し、天平勝宝7(755)年には、東大寺に戒壇院を設立し、翌年大僧正となった。 天平宝字3(759)年唐招提寺を開き、天平宝字7年5月6日に、76歳で薨去する。日本にとって、余りにも短すぎる生涯であった。
 思託は鑑真の門人で、唐の沂州の人で、玄宗の勅により仏門に入り、鑑真により受戒し、律と天台を学んだ。鑑真が日本渡航を企てた当初から行動を共にしていた。天平勝宝6(754)年2月に平城京に入り、東大寺客坊に身を寄せた。同年4月の聖武太上天皇などの授戒に際しても鑑真を補佐した。その後、唐招提寺の戒壇院で行われる授戒に携わった。
 一般に鑑真和上と呼ばれるが、「和上(わじょう)」は元来、律宗・法相(ほっそう)宗・真言宗・浄土真宗などで、受戒の師を指して称した。後世、広く僧侶の尊称となった。和上は律宗・浄土真宗で使われ、和尚(わじょう)は法相宗・真言宗、和尚(かしょう)は華厳宗・天台宗、和尚(おしょう)は禅宗・浄土宗などで称された。鑑真は律宗・天台宗を学んだ和上(わじょう)であった。原初は、和上・和尚共に大陸から来た言葉で、元はサンスクリット語に由来する。

 第一船の藤原清河と同船していた阿部仲麻呂は、天平勝宝5(753)年12月6日、南風起きて第一船は、再び出帆したが、岩に座礁し動けなくなった。やがて唐の南辺にあたる驩州(かんしゅう;後の安南;ベトナム)に漂着し、抑留されたが、逃走して長安に戻るが、そのまま唐にとどまり二度と日本の地を踏むことはなかった。
  阿倍仲麻呂は、養老元(717)年、吉備真備・玄昉らと遣唐使に随って留学したが、唐名を朝衡(ちょうこう)と名乗り唐王朝に仕えていた。唐に戻ると唐朝廷の要職について、安南都護(安察使)や御史中丞(皇帝の秘書、同時に検察・弾劾を掌る次官)などを務め、特に李白・王維・儲光義ら唐代きっての文人詩人と交流し敬愛されていた。

 我が国で、街道の並木について書かれた最初の太政官符は、天平宝字3(759)年6月22日に発せられた乾政官符(けんせいかんぷ)とされている。太政官という名称は、天平宝字2(758)年に、藤原仲麻呂の建策によって乾政官と改められたが、仲麻呂が謀反し斬首されると旧に復した。
 「畿内七道諸国の馬路(うまやじ)の両辺に遍(あまね)く果樹を種(植;う)えつける事  右は東大寺の普照法師が奏状で称(とな)える。
  道路は百姓(おおみたから;天皇が保有する公民)の去来が絶えない。樹がその傍(かたわら)にあれば、疲れて体力が乏しくなった時には、休息場所となる。夏には蔭を就(つ)け、熱を避ける。飢えれば種子を摘み之を食らう。伏して願う。城外の道路の両辺に、菓子樹木(果樹)を栽種(植;う)えることを。
  勅を奉(うえたまわ)ること、奏(そう)による」
 鑑真を日本に導いた東大寺の僧・普照法師の進言によって、街道の並木が出来る嚆矢となった。この太政官符は『類聚三代格巻七・牧宰事』に収められている。
 天平勝宝7(755)年1月4日「勅。為有所思。宜改天平勝宝七年。為天平勝宝七歳。」により「年」が「歳」に改められた。このため以後は、天平勝宝7歳・天平勝宝8歳・天平勝宝9歳と表記され3年間続くが、天平宝字へ改元した際に「歳」を「年」へ復している。唐では玄宗の天宝3(744)載から粛宗の至徳3(758)載まで「載」を用いた。それを模倣した日本では「歳」と表記した。細やかな矜持であった。

 

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